就任式雑感

 まもなく行なわれるオバマの就任式に向けて、ワシントンにはたくさんの人が押し寄せているらしい。歴史的瞬間に遙か遠くからでもいいから立ち会いたい、アメリカの新しい伝説の日の一構成員になりたい、ということなのだろうが、まったくアメリカ人らしい発想だ。
 彼らほどヒーロー(ヒロイン)を求める人々はいない。スポーツにおいて、政治において、科学技術や経済活動、事故現場においてさえ、つねに称賛の対象が求められている。そして彼らの日々には、年に何回か、多くの人が熱狂するグレートな時間、奇跡の瞬間が必要だ。
 どうしてなのだろうと思う。彼らの歴史は短いし、その土地は広大すぎるから、その空白を埋め、国としてのまとまりを感じるにはことさらの熱が必要ということだろうか。もちろん彼らの熱狂の幾分かには共感できなくはないが、多くの場合、5割方いや7割方温度を下げる必要があるように思う。特に政治家への称賛と帰依については。政治家とは自己顕示欲と権力欲を全身に漲らせた俗物中の俗物である、という一面の真理を常に痛感させられている我々としては、政治家にヒーローを期待することには臆病にならざるを得ない。いつも冷めていて半信半疑である。
 それは冷静な大人の政治観であるといえなくもないが、もしかしたらそうした政治観が我々の政治を殺風景なものにしているという側面もあるかもしれない。人々の期待が過度にロマンチックであることによって、政治家たちも常に理想を意識すべきプレッシャーを受ける。そのほとんどがポーズであったとしても、理想を語る政治家はくそリアリズムの政治屋よりは未来の種を蔵している。そしてその政策はより射程の長い思い切ったものになる可能性が高い。
 つまり国民が政治家を作る。期待されない政治家は私利に走り権勢争いに血道を上げる。我々も敢えて我々の政治的ヒーローを探した方がいいのかもしれない。