スピーチライター

 今回のオバマの就任演説ほど、この国でも注目され分析されたスピーチはなかったのではないか。類まれな演説力によって頭角を現わし、大統領にまでのし上がった人だから、一世一代の晴れ舞台のスピーチには政治通でなくとも興味を引かれるというものだ。歴史に残るような名文句が期待されていたようだが、残念ながらというべきか、意外に質実なものだったというのが大方の評価のようだ。
 ざっと聞いて翻訳を読んだだけだけれど、以下の冒頭の部分、現在の状況への総括的な言及はかなり思い切った、ある意味胸の透くものだという気がした。

 『私たちが危機のさなかにあるということは、いまやよくわかっている。我が国は暴力と憎悪の大規模なネットワークに対する戦争状態にある。経済はひどく疲弊している。それは一部の者の強欲と無責任の結果だが、私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった結果でもある。
 家が失われ、雇用は減らされ、企業はつぶれた。医療費は高すぎ、学校は、あまりに多くの人の期待を裏切っている。私たちのエネルギーの使用方法が敵を強大にし地球を脅かしていることが、日に日に明らかになっている。(asahi.com) 』
 ここには自信満々であるべきアメリカの指導者の言葉としてはほとんど例外的に、率直な自己批判と反省がある。それを全面的に受け入れる潔さを感じさせる。しかし懺悔だけでは就任演説は態をなさない。続いて、こういう呼びかけがくる。
 『しかし、アメリカよ、それは解決できる。(asahi.com)』
 そして、その先は、おなじみのアメリカの偉大と希望だ。もちろんブッシュの強気一辺倒とは一線を画した融和的な姿勢が随所に示されるけれど、国民への力強い呼びかけは当然欠くことができない。まさに名文句の吐きどころだったろうが、それは意識してかどうか不発だったようだ。
 ところでこのスピーチをオバマと鳩首して作ったのは、弱冠27歳のスピーチライターだったという。マーティン・シーンが大統領役だったドラマ「ホワイトハウス」でもかっこいい青年がスピーチライターだったけれど、アメリカではこの仕事は特別な花形のようだ。演説力がすなわち政治家の力量とされる国だから、すぐれたスピーチライターの存在が大望ある政治家には欠かせないということだろう。
 翻って日本を見ると、よく知らないがスピーチライターという専門職があるのかどうかも、怪しいという気がする。まともに聞いたこともないし、聞く気にもならない政治家の月並みで冴えない演説は、たぶん秘書などが片手間で書いたものがほとんどだろう。この国では演説力は政治家の最肝要の能力ではない。それよりも国民に見えないところでの、組織内の調整能力やボス的な集団統率力が決め手になる。外見・コミュニケーション的にまったく洗練されていない強面の人物がいつの間にか実力者とされ、首相の座をうかがうようになる。その過程に演説・著述などを通した国民の評価はいっさい介在していない。
 例外は小泉首相郵政民営化を国民に訴えて衆院解散に打って出たあの時ぐらいだろうか。テレビ演説を通して弁舌の力で彼は一気に状況をひっくり返したが、しかしあの弁舌とて冷静な論理的訴えかけによる説得というよりも、迫力あるパフォーマンスという面が大きかったように思う。国民はスピーチに説得されたのではなく、パフォーマンスに魅了されたのだ。
 もちろんアメリカのスピーチにも魅力的なパフォーマンスの要素は重要だが、費やす言葉の量が圧倒的に違うし、論理の精密、表現の洗練はくらべものにならない。スピーチライターというプロが介在する所以だ。
 民主政治が言葉による人々の説得の競い合いである以上、演説の洗練に力を注がない政治はどこか偏頗だというほかないと思う。