広告禍

 今日の朝日新聞朝刊に乗った池澤夏樹の一文「コピーの文体を追い出せ」には、大いに同感。池澤は「ここ何十年かの間に日本語の性格(「言葉と人の関係」)が変わった」と指摘し、その原因を広告的な文章の氾濫に見る。広告の文章というのは、厳密な分析を抜きに、商品を讃美し称揚し慫慂するのをもっぱらとする。つまり眉唾物の言葉。それに日々取り巻かれていることで、日本人は言葉を「軽くしか受け取ら」なくなり、「言語生活全体がこの軽さに染まってしまった」という。その端的な例が、先ごろの政治家たちによる年金記録調査への公約と撤回をめぐる言説。「政治家たちでさえ、こういう朝令暮改の軽い言葉しか持っていない」。では、どうすればいいのか。「結局は、軽い商品的な言葉に対して、重みのある実質的な言葉をぶつけていくしかない」と、この作家は言葉の復権を訴える。
 広告の言葉を作ることで毎年幾許かの収入を得ている人間に、こんなことを言う資格はないのかもしれないが、日本の言葉だけでなく文化全体が、広告を表徴とする商業主義に毒されているんじゃないかと感じる時がある。客観的な視点の欠落した、口当たりばかりがよいコマーシャルの言葉の蔓延が、一方で言葉の軽視をもたらすとともに、言葉の雰囲気的ではない厳密な使用の習慣を弱め、冷静で論理的な思考を遠ざけている。そしてそれが、この国の批判精神を鈍らせ、大勢順応主義をさらに深刻化させている、と感じるのだ。「人生は美しい。あなたはもっと豊かになれる」そんなスタンスのコピーを軽く受けとめつつ、唾棄するでもなくぼんやり受け入れているうちに、我々の問題意識はどんどん鈍麻している。非正規労働者は増え続け、生活は急速に不安定になっているというのに、社会全体から抗議の声が上がることはない。