頼山陽、鮎漁を歌う
瀧生、我が社を要して、嵐峽、香魚を捕らふ
縄聯木片截溪灣 縄 木片を聯ねて渓湾をたち
一舟牽之勢彎環 一舟これを牽いて勢ひ彎環*1
舟行漸疾繩漸曲 舟行は漸く疾く 縄は漸く曲がり
驅得萬鱗聚岸間 万鱗を駆り得て岸間に聚む
衆漁擲網爭神速 衆漁*2 網を擲って神速を争ひ
魚隊驚亂路迫蹙 魚隊驚き乱れるも路は迫蹙*3す
大者跋扈落漁手 大は跋扈*4して漁手に落ち
小者遁逃出網目 小は遁逃して網目を出づ
溪光涵鱗腮帶黃 渓光は鱗をひたして鰓は黄を帯び
苔氣沁膓腹含香 苔気は腸に沁みて腹は香を含む
噞喁上串泣玉液 噞喁*5 串に上して玉液を泣き
聶切下醤嚼蘭肪 聶切*6 醤を下して蘭肪*7を嚼む
錦街樵巷寧無此 錦街樵巷*8 なんぞ此れ無からん
翠鱗總化輭塵紫 翠鱗は総て化す輭塵*9の紫
遇君佳招割芳鮮 君が佳招に遇うて芳鮮を割き
始知香魚香如是 始めて知る 香魚の香この如きを
『山陽詩鈔』巻之六から。江戸随一の叙事詩の大家頼山陽は、こういう季節の風物を写した詩でも、他の詩人とは違う念入りな描写をやっていて楽しい。ただ、他の詩人よりも晦渋げな表現も多めで、辞書やあんちょこ、ネットが近くにないとお手上げということも少なくない。ちなみにこの詩にはあんちょこは発見できていないので、読み下しや語釈はかなり危なっかしい。
嵐山あたりの保津川の鮎といえば、今は愛好者による友釣りが専らだろうが、昔はこういう漁にたずさわる漁師もいたようだ。山陽のレポートはかなり具体的で、板切れをたくさん付けた縄を川に渡し、それを舟で円く引いて、岸に鮎を寄せ、そこに投網を打って捕らえたという。上流の亀岡あたりの伝統漁法と称するものは、川に張った網に人が水音をたてて鮎を追い込むというスタイルのようだが、それとはまた違うおおらかな漁法は魚影の濃かった時代ならではのものだろう。あるいは見栄えのするこの漁、とれたての鮎料理とセットで、すでに観光イベント化されていたのかもしれない。
詩の後半はとれたてぴちぴちの鮎の姿と香り、そして料理の様子。串焼きと刺し身。串焼きの「泣玉液」が疑問。「玉液」とは茶や酒のことのようだが、「泣く」とはなんだ? 焼き鮎に酒が旨くてたまらん、てなこと? 刺し身(聶切)の方の「蘭肪」の蘭も「玉液」の玉と同じく美称で、肪はあぶら。ここはきれいな鮎の薄造りの様か。それにしても、山陽先生の形容は一々時代がかった大層なもので、もう少し素直に鮎の姿と味の美を表現できないものかと思ってしまうのは、漢文的教養から決定的に隔たり、その束縛からも自由になった現代人のないものねだりかもしれない。
とはいえ、山陽の自在な詩才は、単に凝った形容を駆使するだけでなく、リアルな感想をも入れ込んで詩をいきいきしたものにする。錦の市場や木屋町の料理屋では知り得ない香魚のほんとうの美味に、山陽先生は初めて気づいたようだ。この詩が書かれたのは、先生が京都に鞍替えしてから11年も経た文政5年ということを考えれば、京都の食生活というのはこういう「芳鮮」に関しては恵まれていないものだったのかもしれない。「詩鈔」巻之五には松茸と筍を讃える「烹蕈」という詩があって、土ものについては十分楽しんでいたようだが。