加藤泰三のA小屋

「疲れて夕暮近くやっと小屋に着いた。小屋には予想通り誰も居なかった。
 『番人無しで約十人位しか泊れなくて、水に不便で汲んで来るのには西北に少し下り、片道七分位かゝる。其処を利用する者は少なくA岳とG岳の鞍部に在る』
 そのような事が、予め僕の知っていたA小屋の知識だった。
 僕は一人旅で、其処を利用する者少いが故に、其処に泊るのが予定だった。』」
 加藤泰三の『霧の山稜』から「山上の我が家」。ここでいうA岳とは一週間前に登った南八ヶ岳編笠山で、G岳が同じく権現岳なのは、読んですぐに分かった。というのは、この文章には特徴的な土饅頭形の山の麓にある小さな小屋の絵が添えられているから。登山の対象になる山でこんな形の山はたぶん他にはない。そしてA小屋とは編笠小屋だろうから、今の青年小屋はかつて、この文章が書かれた昭和15年当時、編笠小屋と呼ばれていたことが分かる。その小屋はこんなふうに描かれている。
「小屋は古く粗末だったが、屋根は唐檜だか、白檜だかの新しい葉でふいてあり、壁も同じ物だった。少し漏るのが残念だったが、僕は満足した。
 小屋の内に置いてあった偃松の匂いに、蠟燭の匂いが混った。焚火の焔は嬉しかった。」
 翌日、朝飯前に彼は編笠山に登り、遠い北アルプスを写真に収めた(後日、遠景は真っ白で何も写っていなかったというオチがつく)。山小屋を見下ろしているうちに、用意してきた朝飯の飯盒や味噌汁の小鍋や茶碗や箸が、家来のように自分の帰りをつつましく待っているように思えてきて急いで下る。そのくだりがなかなかいいし、よく分かる心持ちだ。
「そして僕は僕の家来達が急に恋しくなった。何だか知らない何だかが、僕の家来に悪戯をしていやしないかと、ひどく気になりだした。
 僕は大急ぎで頂を下った。
 下り乍ら時々小屋に闖入者はないかと見張るように、眺めずにはいられなかった。居たら怒鳴ってやろう。
 『たゞいま』『お帰りなさい』何事も無かった家来達は嬉しく僕を迎えて呉れた。
 ひそけき、清らかな朝の食事。」
 孤独の山では自分につながるものが何でも頼もしく懐かしく思えてくる。山頂から戻って遠くから自分のテントが見えた時の嬉しさ。わずか3日ばかりの山行で募る家恋しさ。けれど今は、特に中部山岳では、そんな孤独な山行が得られる機会はまずない。もとよりこんな静かな小屋も、もうどこにもない。もちろん今の青年小屋も、北アの小屋に比べれば外観は質素だが、中は快適な営業小屋で、夏には昔の青年の皆さんがたくさん宿泊する。加藤泰三の山旅を慕う者は、一人きりの小屋の焚火の焔の代わりに、小さなテントにランタンを灯して山の夜を過ごすしかない。