青毬


 蒸し暑さだけは季節並みだが、今日も不機嫌な空と気まぐれに窓を揺さぶる風。日射しは1秒たりともこぼれないから、家の北側のコンクリ敷きの露地は、緑がかってぬめり始めている。今日はその上に小さい毬が二つ三つ。雲が厚くなると雨よりもまず意地悪く草木をいたぶりに来る、このところの性悪な風の仕業だろうが、そうでなくてもこんなに日光が遠くては植物も勢いを落としているに違いない。植えつけたばかりの日々草の苗がいくつも萎れてしまってと、庭では嫁さんが嘆いている。
 戯れに一つ持って上って、版本の青表紙の上に飾ってみる。さて、この若い実をふつう青栗と呼ぶようで、季語にもなっているが、栗と呼ぶには堅果はまだ影も形もないから正確には青毬だろうか。それに青栗は、ああ、もうあんなに実がと見上げるイメージで、枝にあってこそだ。季語には落ち栗なんてのもあるが、あれは毬が茶色く熟して割れ、実だけがこぼれおちたものを言うから、若くして落ちたのには当てはまらない。虚栗(みなしぐり)という蕉風の勃興に貢献した古語も、虫の入った食べられない栗、蝕栗をいうようだから、落ちた若栗の虚しさとも違う。栗の木があれば毎年たくさん目にするこの青い落ち毬には、実は適切な名がない。
 青春の蹉跌のごとく毬落ちる