山田翠雨

 これまでも何度か紹介してきた地元詩人の山田翠雨だが、そも何者かというと、実は分らない部分が多い。今、その足跡に触れる資料として自分が把握しているのは、下に引いた大正9年刊の『山田村郷土誌』の記事と、同じく『日本人名大辞典』の記述のみ。これらを見ても、どのような家系・身分に生まれたのか、漢学はどのように学んだのか、などなど不分明なことが多い。
 せっかく詩集を端本ではあるが入手できたこの機に、伝記についても探索を深めておこうと、漢学者の資料が豊富そうな本を幾つかあらかじめピックアップして神戸の中央図書館に赴いた。3階のはずなのになぜかその倍ほど階段を登ってたどりついた参考図書室で閲覧を申し込んだのは、『漢学者伝記及著述集覧』『漢文学者総覧』『明治漢詩文集』、もう一つ当てにしていた『日本漢文学大事典』はうかつなことに「大」を抜かしてメモって行ったために、検索で見つけられなかった。
 結果は、総覧にわずかな既知の記述があったのみで収穫なし。見そこなった大事典には帰って調べてみると翠雨に関する記述は確かにあるようで、これは後日出直す必要があるが、これも人名大辞典の種本の一つであることから同内容の可能性が高い。郷土詩人の詮索はひとまず暗礁に乗り上げた次第だが、人名大辞典そしておそらく漢文学大事典の記述は何から出たものか。その辺りが分かれば突破口になる可能性はありそう。

『山田修敬諱は信義翠雨と號す、山田中村の産也、醫を業とし詩を好み又遊旅の僻あり、足蹟全國に遍し、安政三年丹生樵歌八卷を著す、これ山田詞宗の遺物にして千古不磨の珍籍、一郷の誇りとすべきに足る、其序跋は當時雷名を馳する文士の手に成れり、以て翠雨詞宗の技倆を知るに足る、(中略)丹生樵歌の評は當代の所有文士に乞ひたるものにして梁川星巖、後藤松陰、篠崎小竹、廣瀬建、江馬裊の名士あり。
詞宗は安政二年の春舉家京都に引き移り、醫を業とし傍ら文人雅客と交り、名聲大に振ひたり、(中略)詞宗は山田に歸らず京都にて没せらる、妻は山田淳子刀自にして大阪にて育英の業に從はれ明治四十年一月二十五日没せらる、嗣子信之助氏あり。』『山田村郷土誌』福原潜次郎編
『山田翠雨 やまだ‐すいう
1815‐1875
江戸時代後期の儒者
文化12年生まれ。後藤松陰、摩島松南に師事し、漢詩梁川星巌にまなぶ。京都に塾をひらき、慶応のころ美濃八幡藩にまねかれ、藩校文武館でおしえた。明治8年8月5日死去。61歳。摂津八部郡出身。名は信義。字は義卿。別号に鷯巣。詩集に「翠雨軒詩話」「丹生樵歌」など。』『日本人名大辞典』講談社