南九州遺跡見物その一

上野原遺跡
 鹿児島でぜひとも訪ねてみたかった遺跡。鹿児島湾を望む標高250mの台地上、つまり姶良カルデラカルデラ壁上に位置する縄文時代の遺跡で、台地上に工業団地を造成する工事にともなって1986年に発見され、その後の発掘調査でセンセーションを巻き起こした。というのも、縄文時代草創期・早期というごく早い時期の遺跡にもかかわらず、すばらしく発達した文化が姿を現わしたから。それまで縄文時代は東高西低と考えられていた常識をくつがえして、南九州が先進地だったことを実証した。
 具体的には、他地域の縄文人たちがしっかりした住居を持たず、放浪に近い生活をしていたと考えられている時代に、南九州では定住集落が見つかっているし、他地域の縄文土器が尖底土器という、底部が円錐形にとがった原始的な土器一色だった時代に、南九州では早くから平底円筒形の進歩した土器が作られているし、驚いたことに他地域では約3000年前の縄文晩期にならないと登場しない壺型土器が、約8000年前の縄文早期に出現している。桁外れに進んだ文化が縄文時代の初期には南九州にあったことを如実に物語る遺跡の代表格が上野原、というわけだ。
 国分から海沿いの道を離れて北へ向かい、曲がりくねった道で上野原台地に上がると広々した緑が広がった。台地の半分ほどが遺跡公園として保存され、残りが工業団地になっている。遺跡公園には資料館と復元住居、保存遺構や保存地層などがあって、まずはモダンなデザインの資料館で数々の遺物と対面。確かに円筒平底土器の形は縄文の黎明期のものとは思えないほどの安定感だ。少し遅れて登場する壺型の土器なんて、弥生時代のものといっても通用するんじゃないだろうか。
 遠足の子どもたちで賑やかな資料館を出て、子どもたちが駆け回る広々した芝地にある遺跡の保存施設も見学。復元住居はモンゴルのゲルのようにたくさんの柱を円錐形に組んだもの。柱跡の位置からこういう形が推測されたようだ。遺跡保存館には発掘された住居跡がそのまま保存されている。9500年前に噴出したことが分かっている桜島の火山灰に覆われていたことから、その頃のものと判明している恐ろしく古い住居跡だ。住居跡の周りには燻製を作っていたと推測されている穴や貯蔵用の穴もある。
 また地層観察館には上野原遺跡を覆った火山灰などの地層が保存されていて、進んだ南九州の縄文文化の末路を知ることができる。7300年前に鬼界カルデラの大噴火で噴出したといわれる火山灰や火砕流の堆積物が分厚く積もっているのだ。黒く炭化した層もあるから、上野原の縄文村は火山灰に押しつぶされただけでなく、高温の火砕流で焼き尽くされたのだろう。人々の運命も推して知るべし。もし生き延びた人がいたとしても、死の世界になった九州で生き続けることのできる生き物は皆無だったろう。その後、九州の縄文文化はすっかり様相が変わってしまうという。何百年かたって人が住める環境が戻った時には、かつてあった高度な縄文文化はもう影も形もなかった。上野原遺跡はまぼろし縄文文化の証人であるとともに、日本列島を繰り返し襲うカルデラ破局噴火の悲劇の証人でもあるわけだ。

復元住居と資料館

9500年前の火山灰が乗っていたという住居跡

黄色い部分が上野原を覆っていた鬼界カルデラの噴出物。真ん中に火砕流で焼けた炭化物の層がある