佐伯祐三と鐵齋・加藤周一
昨日の佐伯祐三と鐵齋の対比はほとんど加藤周一の受け売りだったりする。というか、佐伯祐三の絵の本場に匹敵する質の高さを目の当たりにしながら、明治以降の日本の芸術的創造力の動向に対する加藤周一の卓抜・明快な見取り図を思い浮かべることで、その天才のほんとうの悲劇性も実感できたように思うのだ。加藤周一の芸術論をひとたび読んでしまうと、その掌のうえで踊るしかなくなる。
『…彼らがフランスへ行ったのは、単に技術を習得するのに便利だったからでは決してない。そうではなくて模倣に徹底するには、絵画というものの性質上、本国にゆかざるをえなかったからである。油絵の表慶館は、上野公園では描けなかった。人間と自然を描く芸術は、社会と風土の条件を離れることができない。油絵の表慶館は、佐伯祐三がパリで描いた作品である。
…佐伯祐三がパリで「油絵」をつくることに専心していたとき、京都で鉄斎は、「日本画」をつくることにではなく、「絵画」をつくることに専心していた。かくして明治以後今日まで、日本の生みだした最大の芸術家は、日本の現代からもっとも遠い芸術家であるということになった。』「現代の芸術的創造」
…佐伯祐三がパリで「油絵」をつくることに専心していたとき、京都で鉄斎は、「日本画」をつくることにではなく、「絵画」をつくることに専心していた。かくして明治以後今日まで、日本の生みだした最大の芸術家は、日本の現代からもっとも遠い芸術家であるということになった。』「現代の芸術的創造」
『私は西洋に憧れた芸術家が、浅薄であったとは、決して思わない。彼らは西洋文化を自分のものにすることが容易だと考えて憧れたのではなく、身も心も捧げつくしてうちこんでさえ自分のものにできるかどうかわからぬほどむずかしいと感じていたから、身も心も捧げつくしたのである。佐伯祐三はパリへ行き、パリに住んでいた間にその傑作を描いた。富岡鉄斎は、周囲に何がおころうと、江戸文化の遺産のなかで仕事をつづけ、南画の歴史に豪華な最後の一幕をつけ加えた。どちらの結果がよかったか、どちらのゆき方がよかったか、と今日問うことには、少しの意味もない。彼らはそれぞれそうするほかないところを行なったのであり、しかも見事に徹底的に行なったのである。…』「芸術家と社会」