深田久弥・硫黄岳

『四十年前、私が初めて登った時は、八ヶ岳はまだ静かな山であった。赤岳鉱泉と本沢温泉をのければ、山には小屋など一つもなかった。五月中旬であったが登山者には一人も出会わなかった。もちろん山麓のバスもなかった。
 建って二、三年目の赤岳鉱泉に泊まり、翌日中岳を経て赤岳の頂上に立った。横岳の岩尾根を伝って、広やかな草地の硫黄岳に着き、これで登山が終ったとホッとしたが、それが終りではなかった。そのすぐあとに友の墜落死というカタストロフィーがあった。
 今でも海ノ口あたりから眺めると友の最後の場であった硫黄岳北面の岩壁が、痛ましく私の眼を打ってくる。』『日本百名山
 もうひとつ八ヶ岳ネタ。上は深田久弥日本百名山』の八ヶ岳の項の最後の数行。ここでは具体的に語られていないこの遭難のことを知ることができたのは、後日『わが山山』を読んだ時だった。「山に逝ける友」という一文に、事故の8年後に書かれた記録が収められている。大正15年、深田は大学1年、後輩の高等学校生二人とともに八ヶ岳を縦走し、最後のピークとなった硫黄岳からの下りで悲劇が起こった。
 彼らは目の下に見える本沢温泉めざして近道をとることにし、爆裂火口の縁に沿って東に下る道を進む。道が雪の下に消えたところで、雪の詰まった火口壁を温泉めざして滑るように下っていた時、後輩の一人が滑落して致命傷を負う。年齢を考えれば、この登山のリーダーは当然深田であり、彼は若き日に重い烙印を負ったと言える。このとき、一生山に忠誠を誓うべき宿命を背負ったと言えるかもしれない。
 ちなみに、深田たちが80年前にとった道は、今は国土地理院の地図にも登山地図にも載っていない。当時もどの程度歩かれた道だったかは、知る由もない。先日の登山でも夏沢峠からの道を往復しただけで、風の強い山頂周辺を詳しく探る余裕はなかった。せめて最高点まで行って、東に下る火口縁のルート、その痕跡をうかがってみるべきだったと、残念に思っている。