雷二題

 昨日のこれでもかという雷雨の印象を引きずって雷噺。
稲妻
 雷光を稲妻や稲光という。なぜ稲かというと、どうやら弥生以来の古い稲作信仰が関わっているらしい。稲妻の語源を岩波の古語辞典にあたってみると、《稲の夫(つま)の意。→いなつるび》とあり、「いなつるび」を引くと、《稲妻と同じく、雷電と稲とがつるんで(交接して)、稲が穂をはらむという古代の考えによる名であろう》とある。
 ちょうどこれからが稲の出穂の時期。そこに雷光が激しく注いで、実りを孕ませるというのは、実にすばらしい発想ではないか。自然を尊敬し、自然現象をそっくり受け入れて、驚異の目で稲の結実を見守っていた古代農民の心が感じられるようだ。
 余談だが、思い出したのが、美しい娘ダナエのもとにゼウスが黄金の雨に姿を変えて降り注ぎ、交わってペルセウスが生まれるという、ティツィアーノクリムトの絵でも知られるギリシア神話の話。自然現象と生殖をセットにしたという点で、これも古代の豊饒信仰とつながるものがありそうな。
鏡花
 泉鏡花の雷嫌いは有名で、番町の家の天井には雷よけのまじないのトウモロコシが吊るしてあった。ゴロときただけで、ワナワナと震えて何も手につかず、妻に蚊帳を吊らせて籠もっていたというような話を読んだ記憶があるのだが、どこにあったものか例によって模糊としている。代わりに岩波全集27巻小品集からの一節。

『剰へ辿り向ふ大良ヶ嶽の峰裏は――此方に蛾ほどの雲なきにかヽはらず、巨濤の如き雲の峰が眞黒に立つて、怨靈の鍬形の差覗いては消えるやうな電光が山の端に空を切つた。――動悸は躍つて、心臓は裂けむとする。』「麻を刈る」