狭山池


 仕事のついでに実家に寄った帰りに、久々に懐かしい狭山池に寄り道。夜の堤防の道を走ろうと、すっかりロードサイドショップに覆われてしまった国道310を右折して、まったく変わってしまった風景の中を地形だけを頼りに池に近づく。すると驚いたことに、堤防の道はなくなっているではないか。なくなっているというよりも、一般道から切り離されて、遊歩道になってしまっている。仕方なく閉鎖されている池畔公園の駐車場の入口に駐めて、階段を堤防に上がり池を見渡す。
 そこにあったのは、コンクリートと柵に囲われた、大きな器だった。これがあの、春は堤防の桜並木がみごとで、いつも釣の舟が浮いていた、そして入漁料が払えない子どもたちは、南と西から流れこむ川の岸で、葦の間から鮒や鯉をねらった、潤いと優しさにあふれていた狭山池だろうか。こんなに無機質になっては、池というよりもダム。遊歩道をウォーキングしている人たちの声が水面に響いていたけれど、岸を打つ波の音も水鳥の声も聞こえてはこなかった。
 調べてみると、2001年に「狹山池ダム建設事業」というのが行われて、まさにかつての池は水を溜める機能だけに特化したダムにサイボーグ化されてしまったみたいだ。何度も近くを通りながら、そして改修工事の噂は聞きながら、こんな徹底した改造がされていたとは、思いも寄らなかった。事業の目的には「都市化が進展する下流域の抜本的な治水対策の一環として狹山池に洪水調整機能を付加するため」という、多くの無用なダム工事に振りかざされてきた例の決まり文句が貼っ付けてある。こんな所までダム屋どもが触手を伸ばしていたとはなあ。
 一般にダム建設で破壊されるのは周囲の自然だが、狭山池ダム化で壊されたのは、「古事記」や「日本書記」にもその名がある、一つの池の悠久の歴史。そして、その池と四季折々に親しんできた地域の文化じゃなかろうか。大阪狭山市民、いや、長くこの池を誇りにしてきたかつての狭山町民は何をしていたのかなあ。だれからも無残なプランへの反対の声は上がらなかったのかなあ。
 堤防の下に建つ安藤忠雄設計の狹山池博物館のシルエットが、狹山池の墓標のように見えた。