仏像とほとけ様

 BShiの「心の仏像100選」という番組を見ていて、仏像について考えた。番組ではタイトル通り、心の拠り所としての、いわば「ほとけ様」的視点から仏像を取り上げていたわけだが、奈良・京都の美術的に優れた仏像に接する時は、あまりにウェットな見方はたぶん生産的ではない。詩的な気分を優先させて雰囲気的にアプローチするには、優れた仏像のフォルムが与える目の楽しみはリアルだし鮮烈だ。潤んだ目でぼんやり見るより、乾いたニュートラルな感覚で接する方が、受け取れるものははるかに多いはず。単に美的な感動だけでなく、どんな人々がどんな時代にどんな文化の影響下に造ったのか、歴史的・国際的にも関心は広がっていくだろう。優れた仏像は「心」の対象ではなく、目と知の対象であるべきなのだ。
 ところが、そんな風にバッチリ見てやろうと、古都に出かけた時、出会うのは仏像が置かれている中途半端な状況なのだ。たとえば先日訪れた興福寺では、目当ての仏像は全身が見られない状態で暗い堂に置かれていたし、特別拝観でたまたま見られた運慶の無著・世親像も、柱や飾り、周囲の仏像が邪魔で、最適な角度・距離から見ることができなかった。もちろん、ふだんは秘仏として見ることさえできないだろう。「ほとけ様」としての扱いが、優れた仏教美術の十全の鑑賞を妨げているわけだ。
 ただ、興福寺というのは面白い寺で、ほとけ様扱いと仏教美術扱いが境内で同居していて、国宝館に入ると仏像がガラスケースの中に陳列されている。確かにそれは見やすくていいのだが、こうなってしまうと何やら物足りないというか、もう少し宗教的な空間に置いて欲しいように感じてしまうのは、仏像には寺院建築との総合芸術という側面があるからだろうか。宗教的空間と調和しながらも、美術としての鑑賞を妨げない、そんな仏像のあり方を求めるのはぜいたくだろうか。