下地勇・方言・折口信夫

 今日、はじめて下地勇を聴いたのだが、最初は中央アジアの曲か何かかと思ってしまった。同じ国の言葉でありながら、まったく理解できない言葉が存在するというのは、ほんとうにインパクトがあることだ。周縁地域の濃厚な方言には強烈なアイデンティティが宿っていて、それが自分の言葉の根の浅さを感じさせる。自分がふだん使っているいわゆる関西弁というのは、真に方言と呼べるものなのだろうか。確かに関西弁には独特のアクセント・イントネーションがあるが、それを我々は全国共通の語彙・語法に乗せてしゃべっているに過ぎない。関西独自の語彙や言い回しの多くはもう日常から失われているのだ。たとえば、生粋の大阪人である折口信夫の次のような小説の断片を読むと、そのことが如実に感じられる。

「捨二郎の事で、おこし下されたんだすか。あの極道めは、どっちへ向いても、他人に迷惑かけくさる。もう、どうぞ、棄つといておくれやす、といふと気強いをなごや思ひなさるかも知れまへんけど、継々しい仲とはいふでふ、尿糞の世話までして来た子だすもん。何で、あんた、憎いもんだすか。」
「さればな。憎うないけりや、心を入れ易へて固気に暮してゐるとすれば、何もいさくさはなからうがのし。」 折口信夫草稿(富岡多恵子『釋超空ノート』から転載)