泉 鏡花

「『鯛だぞ、鯛だぞ、活きとるぞ、魚は鹽とは限らんわい。醤油で、ほつかり煮て喰はつせえ、頬ぺたが落こちる。――一ウ一ウ、二ア二アそら二十よ。』
 何と生魚を、いきなり古新聞に引包んだのを、爺様は汚れた風呂敷に捲いて、茣蓙の上へ、首に掛けて、てくり/\と行く。
 甘鯛、いとより鯛、魴鮄の濡れて艶々したのに、青い魚が入交じつて、鱚も飴色が黄に目立つ。
 大釜に湯気を濛々と、狭い巷に漲らせて、逞しい漢が向顱巻で踏はだかり、青竹の割箸の逞しい奴を使つて、押立ちながら、二尺に餘る大蟹の眞赤に茹る處をほか/\と引上げ引上げ、畳一畳ほどの筵の臺へ、見る間に堆く積む光景は、油地獄で、むかしキリシタンをゆでころばしたやうには見えないで、黒奴が珊瑚畑に花を培ふ趣がある。――こゝは雪國だ、あれへ、ちら/\と雪が掛つたら、眞珠が降るやうに見えるだらう。」「卵塔場の天女」
 鏡花が描く金沢のおそらく近江町市場の様子は、いきいきと色彩豊かだ。年末になると、この文章を思い出すのは、新年を迎える年の瀬の買い出しの、あわただしくも浮き浮きとした気分に通じるものがあるからか。最近は歳末といっても、いつもと変わらないスーパーに出かけるばかりだが、震災前まではよく湊川の市場に行った。鮮魚や乾物、揚げ物や漬け物のにおいに満ちた狭い通路に人と売り声があふれ、何も買わずに歩いていてさえ、心が浮き立つ思いがしたものだ。今は近くを通りかかっても、かつてのような賑わいが感じられないのが寂しい。