ゲルベゾルテ

「『うち、その間に一と休みさして貰おう』
 と、妙子は傘を床に置いて、褄を取りながらゆっくりゆっくりと長椅子の側へ歩み寄って、貞之助に並んで掛けた。そして、
『済みませんけど、一本下さい』
 と、ゲルベゾルテを一本貰って火を点じた。」
細雪谷崎潤一郎
「『やはりこれをやらないことには、どうにもならんと僕は思うね。』越谷はポケットから“ゲルベゾルテ”を抜き出して海塚の手の上にのせ、自分も一本口にくわえ、火をつけた。彼は貰ったのだと言った。ゲルベゾルテの軽い香りはたちまち部屋のなかにひろがり、ボーイたちがこちらの方を見るのが解った。」
『わが塔はそこに立つ』野間宏
 煙草をやめて、かなりになる。禁煙などという大層なことではない。勤め人をやめたら必要がなくなった、というだけのこと。自分を無理に急かしたり、気持ちを落ち着かせたり、日常的にそんな必要がなくなれば、煙草を吸いたいとは思わなくなる。なぜなら、煙草は食物とは違い美味いものではないからだ。「煙草がうまい」というのは味覚が言わせる言葉ではなく、神経が言わせる言葉だ。酒もそれに近い存在だが、これは煙草よりももっと深いところで身体と結びついているように思う。状況に関係なく人は酒を求める。
 唯一、神経ではなく、味覚に近いところで味わった記憶のある煙草がある。それがドイツの煙草「ゲルベゾルテ」だ。だから、今もこの煙草だけはもう一度吸ってみたいと思う。環境が許せば、ゆるく常用することだって辞さないだろう。しかし、よくしたもので、ゲルベゾルテは日本に輸入されなくなって久しい。本国でも製造中止になったという話も聞く。よけいに吸いたさは募る。この先いつか再び、あの楕円形の両切りを親指の爪の上でトントンとやってから、軽く香ばしく風味豊かな煙を、肺腑深く吸い込むときは来るだろうか。
GELBE SORTE