こうもり谷


 たまたま通りかかって対岸から見た、地元の名勝「こうもり谷」の紅葉。車を10分も走らせればこんな景色が見られるのだから、考えたらすごいところに住んでるものだ。大正9年刊の『山田村郷土誌』を見ると、次のように誇らしげに紹介されている。

「衝原村の北、丹生山の西の尾谷に仙境あり。蝙蝠溪といふ。舊家千年家の後より川に架せる獨木橋を渡り、山の根を廻りて溪に入る。溪水洒々として瀧となり、岩角亢として苔滑かなり。一條の登路曲折迂廻し、密樹天を覆ひ、蔓草鞋を没す。忽ち見る千丈の巖壁東西に聳へ、跫音寂寞を破る。途に石門あり。天然の奇趣言ふべからず。又一大巖の横はるものあり。攀登するに優に百人を踞せしむるに足る。仰ひて天空を見れば天愈小にして巖屏更に偉大なり。蔦蘿岩に纒ひ、風蘭幽香を送る。四時の風景、真に小桃源の觀あり。丹生の詞宗山田翠雨、嘗て一小亭を造り、文人雅客の清遊所となせりといふ。」
 最後に触れられている地元山田村出身の江戸末・明治の漢詩人、山田翠雨にはもちろんこの勝地を詠じた詩がいくつかあって、その一つ、「諸子と携えて蝙蝠谷に遊び雨に遇う」と題する詩。
 石巖 裂けて 亀背の劃に似たり
 天公 これを輔けるに蔓藤を以てす
 脚下の人頭 頭上の脚
 儉絶 纔に能く蘿を捫って登る
 忽ち出づれば 不意に天狗を驚かす
 陰壑 風を生じて萬木鳴る
 俄然の昏黒 晝も夜かと疑う
 猛雨一陣 疾雷鳴
 須臾にして山中陰晴變ず
 瑠璃碧潭 涵空清し
 詩骨爽快 痩岩聳ゆ
 有力 酒始めて回りて面頳し
 日暮 人歸りて各々回顧す
 一片の間雲 山亭を護る
 漢詩の常套として表現が少々大げさだけど、ここがロッククライミングの好フィールドになっているのをみてもわかるように、岩壁の“倹絶”は掛け値なし。ハイキングコースが大岩の間を紆余曲折しつつ通じているので、クライマーでなくても“天然の奇趣”を楽しむことができる。この週末あたり久しぶりに遊んでみようかと思ったのだが、地主とのトラブルがあったとかで、入山には許可証が必要という大層なことになっているよう。地元の人間にとっても、蝙蝠谷の奇観は翠雨の詩で偲ぶしかないものになってしまったようだ。