川崎精雄

「…重い荷に悩みながらも、尾瀬ヶ原への滑降は嬉しかった。常緑樹林帯から落葉樹林帯へ下った所で、一行の足並を揃えるため立ち止まった。その時、戸倉から連れた人夫が、
『寒いから焚火でもしてあたりましょう』
 と言って、腰の鉈を取り出し、傍にあった一本の立枯のブナの幹を、こつこつ削りはじめた。ブナを切り倒すのではなく、削った木片をブナの小さな穴に押しこんで、火をつけた。
 息を吹きかけていると、間もなく穴の中が燃えはじめた。
 休息も少し出来たので、
『さあ出かけよう』というと、
『せっかく燃えたのに。あたって行きましょうや』と名残惜しそうな顔をした。(中略)
『消さなくてもいいのか』ときくと、笑って、
『消さなくたって、こいつ一本燃えちまえば消えますよ。だいいちこうよく燃えたら、もう消えませんや。二、三日は燃えてますから、帰りに又あたります。(中略)』
 と、平然としていた。降る雪の中で、立枯のブナを焚く、とは山の人らしい。私たちは尾瀬で彼と別れたから、彼が翌日の帰途に、その焚火にふたたびあたったか否か知らない。
 が、雪の林の中に一本のブナが何日間か燃えながら立っている景色を想像して、私はこんなことを考える。
 吹雪く夜、又は静かな深雪の夜、私たちがそれを見たら、どんなに驚くだろうか、と。また、雪女が見たら何と感じるだろうか、と。」
『山を見る日』「立枯のブナ」
 鈴鹿で焚き火をしながら思い出した話。清絶というのは、こういうことをいうのだろう。