木枯らし句選

 午前中は今年初めての木枯らしが吹きすさび、家のなかにも寒気が侵入してストーブを出したくなったほど。午後はすっきり晴れたが、三ツ峠ライブカメラで見る富士は、本格的な冬の装いだ。6〜7合目まで白くなり雪煙が流れているから、上は風がきつそう。かたや槍ヶ岳ライブカメラは真っ白で、小屋前のベンチがうっすら見えるだけ。高山はこれからはエキスパートの世界だ。稜線漫歩派の身には、時折ライブカメラで覗き見するのが精一杯。
 木枯らしが吹いたこんな夜は、江戸の俳人たちの木枯吟を拾い読みしてみるのも一興と、岩波文庫の黄帯を何冊か引っ張りだして巻末の索引にあたる。あるある、大物・小物、とりどりに木枯らしを詠んでいる。が、ざっと流し読みした無責任な感想としては、意外にこれはという句が見当たらないなという感じ。御大蕉翁からしてそう。

 狂句 こがらしの身は竹齋に似たる哉
という句が有名だけれど、狂句という頭書を付けた通り、これは自嘲とナルシズムの味を効かせた戯れ句という感じがする。一つ取るとしたら
 こがらしや頬腫痛む人の顔
だろうか。でも軽みの勝った句だ。夜半亭蕪村翁にも
 こがらしや岩に裂け行く水の声
 こがらしや覗いて逃ぐる淵の色
などという面白い句があるけれど、どうも趣向の興味がまさって、木枯らしの強いイメージはない。それよりも一茶の
 木がらしや小溝にけぶる竹火箸
の方がこの作者らしい生活観察の細やかさが出ていていい。
 江戸の木枯らしの代表句としてよく知られている池西言水の
 凩の果はありけり海の音
はさすがに好もしい句だ。「凩の果」というシャープな言葉のイメージを「海の音」という豊かな言葉に吸収させたところがみごとと、没意味的に評価していいのか、作者が蕉風以前の人だけに迷うところだが、とにかくカッコいい句であることには間違いない。
 最後に『蕉門名家句選』で見つけた句を一つ。
 木枯や刈田の畦の鉄気水
最後は「かなけみず」と読む。惟然という人の句で、地味な句だけれど、木枯らしの季節の情景をみごとにとらえていると思うのだ。子供のころ目にした、初冬の田圃の、切り株が並び、隅っこにちょっと水が溜まっていて、その上ににび色の空が広がっているといった情景を思い出させてくれた句。動的な木枯らしと静かな溜まり水との対比が、かえって木枯らしの寂しさを感じさせる。