泉 鏡花

 「境は奈良井宿に逗留した。こゝに積つた雪が、朝から降出したためではない。別に此のあたりを見物するためでもなかつた。……昨夜は、あれから――鶫を鍋でと誂へたのは、しやも、かしはをするやうに、膳のわきで火鉢へ掛けて煮るだけの事、と言つたのを、料理番が心得て、そのぶつ切を、皿に山もり、目笊に一杯、葱のざく/\を添へて、醤油も砂糖もむきだしに、擔ぎあげた。お米が烈々と炭を繼ぐ。
 越の方だが、境の故郷ゐまはりでは、季節に成ると、此の鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理、じぶ御このみなどと言ふ立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麥と蕎麥屋までが貼紙を張る。たゞし安價くない、何の椀、どの鉢に使つても、御羹、おん小蓋の見識で。ぽつちり三臠、五臠よりは附けないのに、葱と一所に打覆けて、鍋からもりこぼれるやうな湯氣を天井へ立てたは嬉しい。
 剩へ熱燗で、熊の皮に胡座で居た。
 藝妓の化ものが、山賊にかはつたのである。
 寢る時には、厚衾に、此の熊の皮が上へ被つて、袖を包み、蔽い、裙を包んだのも面白い。あくる日、雪に成らうとてか、夜嵐の、じんと身に浸むのも、木曾川の瀬の凄いのも、ものゝ數ともせず、酒の血と、獸の皮とで、ほか/\して三階にぐつすり寐込んだ。
 次第であるから、朝は朝飯から、ふつ/\と吹いて啜るやうな豆腐の汁も氣に入つた。
 一昨日の旅館の朝は何うだらう。……溝の上澄のやうな冷い汁に、御羹ほどに蜆が泳いで、生煮の臭さと言つたらなかつた。……
 山も、空も氷を透す如く澄切つて、松の葉、枯木の閃くばかり、晃々と陽がさしつゝ、それで、ちら/\と白いものが、飛んで、奧山に、熊が人立して、針を噴くやうな雪であつた。」
『眉かくしの靈』(泉鏡花を読むから転載)
 秋も深まり、夜気が身に沁むようになると、寝床にもぐり込んで鏡花が読みたくなる。それもこんな風な物語の出だしの楽しげな部分がいい。外は氷を透す如く澄切った寒さ。内には温かい料理があり、熱燗があり、厚衾がある。そして、弾むような独特の語りが、外の厳しく澄明な自然と内の床しい人事を心地よく溶けあわせて描写する。それを長い夜、眠くなるまで寝床で味わう楽しみはどうだろう。もし眠りが訪れるのが遅ければ、おのずと物語は佳境に入り、鏡花お得意の怪異譚が展開する。ぞっとするようなあやかしの叙述も、安らかな寝床のなかのリラックスした感覚には、イメージと語感のこの上ないご馳走となるだろう。
 伴う本はコンパクトな文庫本でもいいが、美しい装幀と旧かな・総ルビの岩波版全集なら、なおのこと鏡花の語りは親しく身に添うに違いない。