下谷叢話


 「信夫恕軒の作った枕山の伝は最よくその為人を知らしむるものである。その一節に曰く『先生年已ニ七十。嗣子遊蕩ニシテ家道頓ニ衰フ。人アリ慫慂シテ曰ク高齢古ヨリ稀ナリ。ケダシ賀寿ノ筵ヲ設ケテ以テソノ窮ヲ救ヘト。先生曰ク、中興以後世ト疏濶ス。彼ノ輩名利ニ奔走ス。我ガ唾棄スル所。今ムシロ餓死スルモ哀ミヲ儕輩ニ乞ハズト。…』と。また曰く。『平素他ノ嗜好ナシ。終日盃ヲ手ニシ、詩集ヲ繙ク。尚古人ヲ友トス。看花玩月ノ外復門ヲ出デズ。貌ハ痩セテ長シ。首髪種々タルモナホ能ク髻ヲ結ブ。一見シテ旧幕府ノ逸民タルヲ知ル。』云々。枕山は晩年に至るまで髷を結んでいたのである。」
 荷風の『下谷叢話』は鷗外の史伝に習った大沼枕山と鷲津毅堂の伝。前半は詩名次第に高まる枕山の事績が多く描かれるが、明治改元以降は官吏としての毅堂の行状が中心になり、下谷吟社での活動がしばらくは盛んであったとはいえ、時代から徐々に退場していく老漢詩人の姿を感じさせるものとなっている。上の文章は明治24年の枕山の死の記事に続くもので、続いて遺族の消息が簡単に語られる。全巻の末尾を占める長男新吉に関する次の一文はショッキングだ。
 「大沼枕山の嫡男大沼湖雲の一家は東京市養育院に収容せられて死亡したのである。而してその遺骨を薬王寺に携来たった孤児の生死については遂に知ることを得ない。」