検定狂時代

 検定が大はやりである。この持て囃されぶりは、それにまんまと乗っかって私腹を肥やしていた漢検親子は論外としても、ちと異常ではないかと思う。もちろん社会に役立つ専門技能の育成を促し、それによって就職や待遇が保証される類の検定はあって然るべきなのだろうが、それだけでなく最近はどうでもいいようなものが多過ぎはしないか。
 漢字検定にしたって、漢字の読み書きが達者というだけでは、考えたら大して意味はない。漢字は言葉の素材に過ぎないのだから、漢字・熟語・漢語の知識を生かしていかに豊かに言葉・文章を操れるかが肝心であって、漢字の知識はそのプロセスの問題に過ぎない。
 もちろん小中高校は言葉の習得の過程だから、漢字をせっせと覚え、それをテストされることは必要だろう。しかし大学生になり社会人になってなお、漢字テストでもあるまい。めざすべきは漢字も含めたトータルな言葉の力、文章力であるべきで、マニアックな漢字の知識はクイズ番組かそれこそ漢検にしか役立たない。
 こう書くと、ならばトータルな言葉の力、文章力に対する検定があればどうかという反論が予想されるし、実際に日本語文章能力検定というのがあって、さすがに商魂逞しい漢検親子、これも彼らが仕掛けた次の一手だったようだが、そんな検定こそ大いに問題があると思う。
 文章という形があるようでない、硬軟変幻自在な有機体的派生物。それをだれが検定という一律の基準で評価・採点できるというのだろう。できたとしても部分的な語彙や用法のチェックがせいぜいで、そんなもので文章力検定とはおこがましい。文章力は、もっといえば人間の能力は、検定などで一律に評価できるほど単純なものではない。それができると錯覚しかけているところに、今の日本人が陥っている人間疎外がある、といえば社会科学者の口真似が過ぎるか。
 たぶん今は人間の価値基準が混乱している時代なのだろう。自分の価値にみんなそのままでは自信が持てなくなっているから、形あるものに縋ろうとする。それが人を検定に走らす。心の平安が得られるならそれも結構かもしれないが、検定を保証するものは神でも絶対的な真理でもなく、時には腐敗した一世俗組織なのだから、数ある検定こそはまず検定されるべきなのだ。それが人間の能力を画一化・矮小化するものではないかという基準でもって。