富岡鐵齋旧居

 引き続きストリートビュー遊び。
 以前から見に行ってみたかった鐵齋翁の居宅跡を、ずぼらにもマウス操作だけで訪ねてみた。といっても旧居は公開されているわけではないので、実地でもこのビューと同じく道からのぞくしかないのである。

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 場所は京都御所の西。室町通を北上して一条通と交差する少し手前。南に向かって、右手が上京中学校、その校門の向かいが鐵齋旧居。地図上では今は京都市議会公舎だ。
 母屋はご覧の古い日本家屋だが、道を3コマほど南へ進むと、白壁の日本家屋に並んで外壁がタイルの3階建てのビル風の建物が現われる。ここまでが鐵齋宅。
 なぜこんなビルがと思われるかもしれないが、実はこの建物こそが鐵翁が晩年に建てた書庫「魁星閣」なのだ。87歳の年の大正11年7月、鉄筋コンクリート3階建ての書庫は完成し、まもなく鐵齋はスケッチ風の墨画を描いた。それがこれ。

魁星閣図
 絵の右端にある四角い建物が「魁星閣」。この近代的な建築に名に聞こえた鐵齋の和漢の蔵書が収められた。今は2階部分まではタイル張りだが、たぶん建築当時の外装は今の3階部分の状態だっただろう。それにしても、当時の閑静な室町通にそぐわない無粋といえば無粋な建物。鐵齋が建てたビル。この最後の南画家の意外な合理主義者の側面を見る思いがする。
 ちなみにその左側の白壁の建物は、これも「賜楓書楼」と名づけられた書庫だったことが、『鐵齋大成』第2巻に収めれた嫡孫富岡益太郎の「祖父鐵齋の思い出」という文章から分かる。ちょっとその引用。

『…書庫は最初は木造二階建延坪二四坪ほどのものを明治末年頃に建て、二階は父、一階は祖父の書物を納め、父は二階の一部に机を置いて研究する場所とし、そこから母屋の台所に屋内電話を架設しました。この書庫を祖父は、庭に御所で生えた楓を移し植えたことにちなんで、「賜楓書楼」と名付けました。…
 父は年来の研究であった中国の鏡鑑類や敦煌出土の経巻、清初の画家たち四王呉惲の画などかなりの蒐集を残しており、書籍も毎年ふえる一方でありましたから、これらの遺品と祖父の書物を保護するために、大正一一年に、従来の木造書庫の南側に、鉄筋コンクリート造りの三階建書庫を新たに建て、これを「魁星閣」と名付けました。この書庫には、一階に鐵齋の蔵書を収め、二階、三階には父の蔵書と、古鏡そのほかの蒐集品を、従来からあった木造の書庫より移しました。…』
 では肝心の鐵齋の画室はというと、道から見ただけでははっきりしない。上の「魁星閣図」の人のいる部屋が画室だとすると、書庫と母屋の間にわずかに見える建物がそれなのだろうと推測するしかない。今、鐵齋旧宅は京都市議会公舎ということだから、公のものとなり、たぶん議員さんの宿舎などに使われているのだろう。なんとももったいない話だ。なぜ原状に復し、この世界的大画家の創造の場をすべての人に公開しないのだろう。