グーグルという権力

 NHKスペシャル「グーグル革命の衝撃」の再放送を見る。Googleは検索サイトが乱立していた時代からひいきにしてきたので、悪い印象はもってない。当時から検索力は群を抜いていた印象が強いし、今もその印象に変化はない。ただ、最近は以前に比べて、マイナーな検索語に対しては思い切った切り捨てが行われているんじゃないかと感じることがある。
 たとえば、「山田翠雨」という、一般的には超マイナーな漢詩人の名前を検索すると、Googleでは14件のヒットしかないのに対し、マイクロソフトLive Searchでは91件のヒットがある。後者では山田と翠雨、両方の文字があるページを抽出するためにこうなるようなのだが、まあ、Live Searchの方が愚直というか、場合によっては親切といえなくもないかもしれない。ちなみにGoogleの検索では、このブログの記事がトップにくるので、手前味噌ではないが、無駄なく新鮮な言及をピックアップするという点では、依然として最も効果的な検索であることは間違いないのだが。
 それはともかく番組は、Googleの影響力が巨大になり、商業主義と結びついた結果、企業活動の生殺与奪をほしいままにできる権力としての側面が顕著になっていることを示唆していて考えさせられた。Googleのヒット上位になることに血道を上げる企業や、突然Googleの検索から排除されて売り上げが激減し、訴訟にまで及んでいる企業もあるほど、アメリカでは企業と消費者のGoogle依存が進んでいるようだ。特に後者のケースは、それまでは検索の上位にいた企業が、ある日突然何の説明もなく検索対象から抹消されるという、Googleの恣意的な検索結果の操作を思わせる奇怪な事態なのだが、それに対するGoogle側の弁護士の裁判での陳述が、「Googleは検索の順位を自由に決める権利がある」そして「原告のサイトはGoogleにとって価値がないと考えている」という傲慢一方なものだったのには驚かされた。
 実は自分も、世話になっている会社のサイト作りを手伝ったことがあるのだが、その種のサイトとしてはそこそこ内容のあるものになっているにも関わらず、いまだにGoogleの検索にヒットしないということがある。同業者のページが星の数ほどある企業サイトの場合、それなりに金を使い手間をかけないと、今やGoogleに拾ってもらうことさえできないようだ。ましてや、黙っていても客が飛び込んでくるGoogle上位になるためには、不断にかなりの経費をかけ続けることが不可欠となるだろう。
 普及しはじめたころのウェブの世界の魅力は、検索サイトも登録制のYahooしかなく、大組織のサイトも小組織のサイトも個人のサイトも、Yahooのアカデミックなカテゴリーに収められて、同じウェブサイトとしての表現権をもち、平凡な大組織サイトよりもユニークな小組織・個人サイトの方がときには影響力をもつこともあるという、画期的な平等の実現にあったように思うのだが、ロボット検索の進化によって検索サイトが順位づけや取捨選択の権利をもち、検索自体に商業主義がなだれこむ現状では、企業サイトに関しては、今や他メディアと同じく、大が小を圧倒し、機会の平等は失われたといえるだろう。
 個人サイトに関しては、稀少な言及やユニークなレポートなどがしっかり検索にかかる現状はまだ健全だと思うが、テーマによってはアフィリエイトねらいの下心ありの記述が幅を利かせ、価値のある情報の検出が難しくなりはじめているのも事実。これ以上、商業主義の浸食が進まないことを、またGoogleをはじめとする検索サイトには、準公器として恣意的な運用の歯止めがかけられ、ある程度の機会の平等が保たれることを望みたいものだ。