冠 松次郎

「黒部の中流の平から御山谷、御前谷、内蔵助谷に至る快闊優美な地域、三千米前後の両岸の高い山々にかこまれた渓谷の景色はすばらしい。
 渓を探るのが目的で入った私たちは、周囲の壮麗な景色に見とれながらも、碧水の中に游いでいる岩魚の姿が忘れられずに、夢中になってそれを追いながら、流れを渉り、壁を攀じた。
 夕方になると支流の出合の広い河口洲の、白砂の平に天幕を張り、焚火をすると、とった岩魚を竹のクシに刺して焚火の周りに、ずらりと並べた。
 ふんだんな流木と、美しい水で炊き上げた飯を、とりたての岩魚の塩焼と、山菜を実にした味噌汁とタクワンで、夕餉のご馳走にありつく。
 空は茜色を流し、高い山々は夕映に光っている。山から谷へ下りて来た岩燕の群れが矢のように流れの上を飛び廻っている。やがて上流から夕靄が静かに下ってくる。
 月の光、星のまたたき、何という楽しい山旅だったろう。」『渓』「岩魚の話」
 冠松次郎は近代登山の黎明期に活躍した岳人。黒部渓谷の遡行に情熱を燃やし、今では伝説の人となっている山の案内人、宇治長次郎を先達に、この人跡未踏の嶮谷に挑み続け、ついには完全遡行に成功する。それらの一連の記録は、日本の山岳紀行の古典のひとつだ。冠は頑健な岳人であったと同時に、すぐれて文の人でもあったようで、書物に埋もれた自宅は黒部の谷をもじって、「紙の廊下」などと呼ばれたという。その数多い文章は今も古びること少なく、未知の自然を探る喜びを伝えて瑞々しい。
 ところで、冠松次郎によって、かくもうるわしく描かれた「黒部の中流の平から御山谷、御前谷、内蔵助谷に至る快闊優美な地域」は、今では歩くことはおろか、目にすることさえできない。ほとんどの部分が、ダム湖に沈んでいるからだ。思えば、黒四ダム計画というのは、何という暴挙だったことだろう。北アルプスの懷に、人為から奇跡のように隔絶されて数十キロに渡って流れていた、日本で最も雄大な谷の中央部を、巨大なよどんだ水溜まりに変えてしまったのだから。このような明白な愚行に、当時ほとんど反対の声が上がらなかったことは驚きだし、人間の価値観の、時代に流される浮薄さ・無定見さを痛感しないわけにはいかない。