山田翠雨墓

 ちょうど五条坂陶器市の最終日だったから2週間以上前になるが、ようやく地元の漢詩人、山田翠雨翁の墓へ参ることができた。墓所の長楽寺は京都円山公園の南側に沿う道のどん詰まり。日が傾いてなお熱気が淀む京都の街を、拝観時間を気にしながら東山に向かって急いでいると、一気に汗が吹き出してくる。塋域へは本堂への階段を上りきって、さらに小暗い山道を少したどる。受け付けのお坊さんがわざわざ市街一望の絶景地だと言ったのもうなづける、東山の山腹に危うく張りついたような墓地だった。

 入り口で水を汲んで墓石の間を進むと、探すまでもなく立派な山陽先生の墓の前に出、そのすぐ奥に翠雨翁の墓石が見つかった。以前、岐阜の詩人中嶋さんからお教え頂いた通り、周囲の雑木に隠れて少々荒れた雰囲気。この様子では長らく縁者が参ることもなかったのだろう。薄い地縁ながらと、少し掃除をさせて頂く。枯れ木や朽葉の始末は何とかなるが、墓石を囲んだ石の柵が傾き乱れているのはどうにもならない。藪蚊にせっつかれて結局さほどのこともできなかった。

 昔の墓はそういうものだったのか、持参した一束のしきみを立てる場所が見つからないので、水鉢に水を張って根を石で抑えてどうにか生ける。線香が立つような深い穴もないので、墓石の台に置く。これは山陽先生と竹外酔士の洒脱な墓へも。その山陽墓のすぐ横にきれいに並んで翠雨墓はあり、墓石の姿もよく似ているので、まるで師を慕って周囲に眠る文人たちの一員のようだが、よく見ると間には仕切りの石があり、墓域ははっきり分かれている。一つの土地に睦まじげに寄り添う山陽ファミリーからは外様といった格好だ。それでもこうした奥津城を望んだ老詩人には、「頼山陽の時代」に遅れてしまった青年の憧れが生き続けていたのかもしれない、などとぼんやり考える。

 最後に、展墓の一番の目的だった背面と右側面に彫られた墓誌銘の写真を撮って墓前を離れた。その時再確認した詩人の命日、明治乙亥八月五日は明治改暦後の日付だろうから、奇しくも百三十七回忌に五日遅れの墓参。墓誌銘を読み下したものを今度いつ行くかわからない墓参の記念に置いておこう。撰者の宮原龍、号節庵は、藤井竹外などと同世代の頼山陽門の人。山陽没後、昌平黌に学んだ後、京都に戻って私塾を開いていた。翠雨とは九つ違いだが、都に門戸を張る先輩として親しんだのではなかろうか。著書に『節庵遺稿』があり、近代デジタルライブラリーで公開されている。この墓誌銘も巻二に含まれているが、異なる部分がかなりあり、下書き原稿と思われる。

「翠雨翁、姓は山田、諱は信、字は義卿、一に鷯巣と號す。攝州八部郡中邨の人。其の先、橘氏と為す。家世、農を為す。祖仲三郎、諱は某、二子有り。伯、市兵衛と為す。家を嗣ぐ。季、慶純と為す。醫を業とす。箱木氏に配す。一男を生む。即ち翁と為す。幼きより学に志し、大阪に遊ぶ。師、松陰後藤氏。又京師に遊ぶ。摩嶋松南に贅を執る。後に常に京阪の間を往来す。黽勉、経史に力を用いる。父の疾を聞く。星馳、帰郷す。病、已に大いに漸む。終に起たず。翁、嗣と為る。家に在っていよいよ勤め、學を怠らず。遂に居を移して、京師に帷を垂る。四方、笈を負うて来たり従う者多し。しばしばシン紳の辟に値うも、皆就かず。明治中、美濃郡上、青山君、其の賢を聞き、之に師事せんと欲す。厚禮、之を聘す。翁、其の殊遇に感じて、決起して召に應ず。之に居ること三年。老いを扶けて帰京す。疾に罹りひとたび帰郷す。而して未だ期年ならずして又入京す。疾いよいよ篤し。終に起たず。明治乙亥八月五日没す。享年六十一。東山長楽寺に葬る。翁、人と為り、重厚寡欲。人、其の善詩有るを最も稱す。著す所、翠雨稿。先に近藤氏に配して一女を生む。後に故有って之を出す。而して女、某氏に適く。継室、中西氏、子無し。門人等と相謀りて碑銘を余に索む。蓋し其の遺嘱と云う。余、舊識の誼有りて辞さず。其の概畧を叙して銘を以て係ぐ。銘して曰く。『寡言力行、敬以て内を直す。講學論徳、義以て外を方にす。衆、詞翰と稱するも、君子の餘事。』明治乙亥十二月友人宮原龍撰并びに書。」