山田翠雨・山田淳子追記

 江戸末の地元詩人、山田翠雨に関して、架蔵の大正10年刊『武庫郡誌』に若干の記事があるのに気づいたので、以下に録しておく。またその夫人、山田淳子についても昭和14年発行の大阪『東区史』に小伝が見つかったので、併せて書き写しておく。万一、両先人の事跡を求むる人あって、その追慕に資することあらば幸い。

 なお、後者はGoogleの書籍アーカイブに収録されたものから、その強力な全文検索で見出されたもの。探求本であった翠雨の詩集『丹生樵歌』自体も同アーカイブに収録されていて、欣喜雀躍、デジタル時代の恩沢に浴した次第。Google社の私企業の利益追求を離れた、データの公共化の志には感謝措く能わざるものがあると同時に、外国企業にこんなことをやられてしまっている日本のコンテンツ企業に、少々情けない思いを禁じ得なかったことも併せて記しておきます。

【山田翠雨】※新字新かなに改めた
山田翠雨名は修敬、翠雨は其の号なり。文化十二年中村に生る。家代々医を以て業とす。修敬幼より学を好み、郷学を終えて浪華に出で、後藤松蔭・篠崎小竹の門に遊び、後郷に帰りて父業を続ぐ。性恬淡小節に拘らず、中年より遊歴を好み、六十余州足跡を印せざる所なく、到る所名山勝水を賞し、自家の嚢中作詩の資料として楽しむ。故に翠雨の詩は画家の写実の如く、敢えて工を加えず、専ら其の実況を主とせり。丹生樵歌と称する一巻は、実に翠雨詩集の遺稿にして、天保四年即ち翠雨十九歳の時より、安政元年即ち其の四十歳に至る二十年間の作集なり。
山田の勝たるや、翠雨に依りて生きたるもの少なからず。殊に蝙蝠渓の勝に於いて然りとす。即ち同志に謀りて醵金し、荊棘を艾り道路を拓き巌上に蝙蝠亭を建て、月花雨雪の眺めは更なり、渓間に鮮を漁し、後壑に薇を採る、清遊の地となさしめたり。其の蝙蝠亭の遺跡此の人去りて後は、徒に風餐雨蝕に任せて顧みる者なく、今は勝地の樹石すら伐るに任せ、取るに任じて遂に凡化し、人更に平凡化せり、嗟乎。安政六年翠雨家を京都三条碩町に移す。其の配淳子、亦和漢の学に通じ、殊に国風に善し。(後略)

【山田淳子】 ※同
 本姓近藤氏、名は淳子。文政八年、播州加東郡大畠村に生れた。幼少の頃母から「百人一首」及び「古今集」を学び、年十七歳で京都の儒医山田翠雨に嫁し、夫翠雨から儒学を受け、国学那須繁仲に就いて学んだ。夙に勤皇の志に燃え広く当時の志士と交わり、特に頼三樹三郎・蓮月尼等と親交があつた。又欧化思想を排斥すること甚だしく、嘗て福沢諭吉の小学読本を破棄したこともあった。夫の没後、大阪に来て東区北浜二丁目の花外楼の辺に梅香社を創設し、国学及び和歌を唱導した。これより先、神戸女学院に教鞭を執ったこともあるが、晩年現在の東区餌差町の円珠庵契沖の墓側にささやかな三足庵を結び、其の余生を静かに歌道に過ごした。資性貞淑で、常に各種の新聞を購読し、社会・政治・経済面に至るまで悉く眼を通し、其の欄外に朱を以て各記事に対する感想批評を自ら注していたという。其の博識と老いて尚倦まざる精進とを窺い知るべきである。明治四十年一月二十五日、八十三歳で没し円珠庵に葬られた。遺著「山田淳子歌集」一巻がある。嘗て人の来訪するを避けて、三足庵の柱に貼付した短冊の歌に
 わび住の庭の木の葉に埋れて浮世のちりはあとだにもなし
 我が宿は人になこその關すゑて心の花をひとり眺めむ

八十一淳子