和歌浦展図録

 地方の美術館や博物館に行くと、ローカルな作者や地誌を取り上げた過去の展覧会の図録に出会うことがあり、売店を覗くのを楽しみにしている。先日の和歌山市立博物館でも図録のバックナンバーがなかなか充実していて、桑山玉洲展のものと標記のものをピックアップした。
 神亀元年(724年)の聖武天皇行幸に随伴した山部赤人が「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る」という名歌を残して以来、歌枕の地として知られてきた和歌浦。その文学的イメージや実景を題材として描かれてきた多くの絵を集めた2005年秋の「和歌浦―その景とうつりかわり―」展の図録だ。
 地方の博物館ならではの企画で、たくさん集められた絵を見ているだけでも楽しいが、そこから和歌浦の地形や周辺環境の変化が読み取れるのも興味深い。そして結局、現在の和歌浦の壊滅的な状態と引き比べて、かつての美景への愛惜の念に思いが行き着くのは致し方のないところだろう。
 図録中の論文によると、「家臣が新田開発の予定地として和歌浦を挙げた時、(初代紀州徳川家藩主)頼宣は歌枕・名勝の地を開発しては末代まで笑いものになるとして和歌浦の景観保全を命じた」そうだ。かつての日本人にとって古典につながる名所はかくも冒すべからざる存在だったのだ。
 ところが後代になると塩田開発が許可され、和歌浦頽廃の端緒が開く。近代になると塩田は埋め立てられて、リゾート開発に場所を提供することになる。海水浴場や遊園地など、従来の歌枕の名所とは違った文脈で近代の観光地化は進められ、観光地化は市街化を呼ぶ。その結果名所の景観は陳腐化してしまう。観光の波が通り過ぎれば、残るのは名所の残骸というわけだ。
 丹後の天の橋立の景観は残ったのに、紀伊和歌浦は消滅寸前だ。大都市に近過ぎた名所の悲劇ということかもしれない。そこでは、名所を静かに観賞する東洋的精神が、楽しみを追求する西洋的な観光思想によって駆逐されてしまったと言えそうだ。