江戸の落書き

 石山寺の本堂を見物していて、扉や壁にたくさんの落書きがあるのに気づいた。修学旅行生の引っかき傷ならば眉をひそめなければならないところだが、そうではなく溝がすっかり丸くなったずいぶん古そうな署名だ。明らかに江戸時代と覚しいものもある。たとえばこれなどは、

「関東下野もてぎ すか又八なつ まん文七」と読めそうだ。一部自信はないが、「もてぎ」が栃木の茂木なら菅又という地名は今もある。ずいぶん田舎からやってきたお上りさん夫婦が落書きというか、記念の署名を残したもののように見える。
 三井寺の金堂にもあった。

 こちらは「武州江戸子松町」とだけ読めるが、これも古いものだろう。
 これらの堂々たる署名を見ると、当時は古い寺の壁に名前を残すのは特に悪いことではなかったようだ。あるいは関東のお上りさんだけの悪癖だったかもしれないが、それを咎め立てする坊さんもいなかったということだろう。文化財保護などという観念のないおおらかな時代の、旅人の息づかいが感じられる、今となってはこれもまた貴重な形見だ。
 ついでに手許にある江戸の紀行類をひっくり返して、当時の三井・石山詣での様子を探してみた。ところが、膝栗毛の弥次喜多は伊勢から奈良を通って京に入っているし、「羇旅漫録」を残した曲亭馬琴は、江州の大洪水に遭遇して寺詣でをしている場合ではなく、大急ぎで京に逃げ込んでいる。意外に二山の参拝記は少ない。
 唯一あったのが、幕末の志士、清河八郎の「西遊草」。安政2年(1855年)の3月から9月にかけて、清河は郷里の出羽から母を連れて、三都のみならず中国・四国にも及ぶ大旅行をする。その途次、二山にも詣でている。
 まず三井寺に登って見晴らしを楽しみ、大津から湖に浮かび、湖水に映える膳所城を眺め、瀬田の唐橋をくぐって、石山の下に舟をつけている。見物の後は茶店の楼上に登り、酒杯を傾け、鮒・鰻を食らい、「しばらく楼上にかりねをいたし、あつさをしのぎ、七つ頃に目をさまし、楼上をくだりて川端を歩む」という悠然たる有り様だ。
 今や至るところに車が疾駆する狂奔の巷と化したかつての水郷をもはや嘆くまい。ただ江戸の落書きを残す二寺がなお幽邃境の面影を保持するのを喜ぼう、と思うも、こういうものを読むと、心は過ぎ去った時代に憧れ出る。