空撮・大阪砲兵工廠跡

 また空中写真でタイムトラベル。
 「国土変遷アーカイブ」には敗戦まもない時期に米軍が撮った写真も公開されているから、当然各都市が蒙った空襲の傷跡もリアルに記録されている。なかでも発見だったのがこれ。

 当時、東洋最大の軍事工場といわれた大阪砲兵工廠、その1948年の空撮だ。大阪城の右側の部分がそれで、600万平方メートルの土地に70万平方メートルの工場があって、数万人が働いていたという。当然米軍の空襲の標的になって、1945年6月と7月の空襲はさほど大きな被害はなかったが、敗戦前日の8月14日の大空襲で壊滅した。14日にはすでにポツダム宣言受諾が通告されていたはずで、この空襲は戦略的にはまったく意味のない破壊・殺戮だった。

 さらに砲兵工廠部分のクローズアップ。惨憺たる有り様が上空からもわかる。たくさんある黒点はB29が大量に投下したという1トン爆弾のクレーターだろう。米軍は都市への攻撃に主に焼夷弾を使ったが、軍事拠点には破壊力の強い爆弾を投下した。最初の写真を見ると、少し南の玉造あたりにもクレーターがあり、周辺の町もこの大空襲のとばっちりを受けたことがわかる。北側の京橋駅のホームを爆弾が直撃して、避難していた多くの人を巻き込んだ悲劇は、今も語り伝えられている。考えたらこんな都市の中心部に大軍需工場があったこと自体、ひどい話だった。
 ところで、砲兵工廠跡は不発弾があって危険ということもあって、戦後も長く放置されていた。金になるくず鉄が山のように残されていた廃墟は、杉山鉱山と呼ばれてアウトローたちの暗躍の場になったことは、開高健の『日本三文オペラ』などで知られているが、それは昭和30年代前半までのことで、あの痛快な本を読んだときにはもうだだっ広い公園だった。いまや伝説と化した大軍需工場跡の実像がこんなところに残っていたわけだ。