河上肇

漢詩を日本読みにするのは、簡単なことのやうで、実は読む人の当面の詩に対する理解の程度や、その人の日本文に対する神経の鋭鈍などによつて左右され、自然、同じ詩でも人によつて読み方が違ふ。』「閑人詩話」
 iPhone青空文庫をあさっていたら、河上肇の詩話があった。パラパラとタッチパネルを指で撫でて拾い読み。この戦闘的なマルクス主義経済学者は、治安維持法違反で獄中生活を送った際、漢詩に親しみ、後に『陸放翁鑑賞』を書いたことはよく知られているが、漢詩についてもなかなか戦闘的な人だったようだ。この「閑人詩話」には幾人もの著述家や学者がやり玉に挙げられている。特に読み下し文への注文はなかなか厳しい。岩波文庫に収録されている学者の読みに対しても『私はかうした句読の切り方にも賛成せず、それに何よりも全体の調子がひどく拙いと思ふ。』といった調子である。
 具体例については青空文庫をのぞいていただくとして、河上肇の批判が教えるのは、要するに漢詩を読み下すことは漢詩の理解そのものであって、語義はもちろん、詩がどのような状況で何に情を動かされて書かれたかを完全に理解した上でなければ、あいまいでちぐはぐな読み下しにならざるを得ないということだろうか。
 そもそも基本的な素養に欠ける身を省みず、時に江戸漢詩の読みをウェブに上せて遊んでいる人間としては、耳が痛いというのもおこがましく、伏して謹聴するしかない次第だが、漢詩が詩である以上、漢語の厳密な理解や用語の先例に対する知識とともに、詩作の場への想像力が求められるというのは、少しほっとさせられる話だ。大漢和と四庫全書が厳密な漢詩理解への必要条件だが、それだけでは十分ではないというわけだ。そこに素人の個人的な楽しみの入り込む隙もなくはなさそう。