知覧

 鹿児島から薩摩半島を1時間ほど南下したところにある知覧は、年配の人には大戦末に特攻機が飛び立った場所として記憶に残っている地名だろうが、最近はよく整った町並みが残ることでも知られている。指宿へ向う途中、有料道路を下りて立ち寄ってみた。
 浅い谷間を占める知覧の町の、県道から一本入った旧道沿いに江戸以来の武家屋敷が連なっている。東端の駐車場に停めて、最初の屋敷で入園料500円を払う。入園料というのは各戸で公開されている庭に立ち入るための料金のようで、道を歩くだけなら払う必要はなさそう。初夏を思わせるまぶしい日射しの下、二三屈曲があるもののおおむね直な700mほどの道をゆっくり歩いた。
 電信柱が一本もない道の両側には、よく整った石垣とその上に手入れの行き届いた生け垣が連なり、所々に屋敷の門が口を開けている。公開の標識のある門をくぐって、石垣や生け垣で少し入り組んだ通路を屋敷の前栽まで入る。縁側から見ると、よく乾いて白く光を照り返す砂勝ちな前庭の向うに、石組みとマキやサザンカツツジなどの刈り込みが盛り上がって背後の生け垣に続いている。それぞれいかにも長い年月を経た立派な庭ばかりだ。公開されている庭は7つだが、それ以外の家にも古い庭があるか、あったのだろう。
 庭もいいがやはりこの町の一番の魅力は道からの景観だ。特にマキを中心にした生け垣は厚さも高さも普通の家の比でなく、道からほとんど家屋が見えないほど。家屋は必ずしも旧態をとどめているとはいえないようなので、もし道沿いの石垣と生け垣がないか規模の小さいものだったら、この町の景観はごく平凡なものに過ぎなかったろう。
 それにしても生け垣というのは放っといたらすぐに乱れてくるものだから、いつも整った状態を保つのは大変だろうな。あまつさえここの生け垣は直線ではなく波打つように刈り込まれている。それが景観を単調でないものにして、町歩きを一層楽しくしているのだが、その蔭には住む人のセンスと熱心な庭師の存在が感じられる。
 ところでこの知覧の町、城下町というには小さいし、かといって宿場町でもなく、どういう成り立ちだろうと思えば、背景には薩摩藩独自の外城制というものがあるようだ。入園の際もらったパンフレットには「江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせました。知覧もその外城の一つです。」とある。
 とはいえ、この知覧の町だけがこんなにみごとな町並みを形成したのはなぜだろう。パンフレットには屋敷群ができたのは「佐多氏十六代島津久達(1651〜1791)の時代もくしくは、佐多氏十八代島津久峯(1732〜1772)の時代」とある。そして当時、知覧の港が琉球貿易の拠点だったことから、琉球の影響を受けてこういう姿になったものと推測している。確かに石垣で囲まれた町の構成は日本離れしているし、沖縄でよく見られる魔よけの石碑や屏風岩のヒンブンも使われているらしい。けれど石垣による幾何学的な構成を、波打つ生け垣と日本庭園で和らげた構想は琉球一辺倒でもない。こんなみごとな町づくりを主導したデザイナーは誰だったんだろうか。