内田百閒の小説

『「大藪、小藪、ひっから窓に蜂の巣。お解りになりまして」
「いいえ」
「ひっから窓はお目目よ。鼻の穴が二つあって、蜂の巣みたいじゃありませんこと」
 また手を上げて、その辺りをくしゃくしゃと撫でた。
「小川に小石、歯の事よ、先生。何だかぼんやりしていらっしゃるわね」
 にゅっと手を出したと思ったら、いきなり私の耳を引っ張った。
 びっくりしている所へ私の顔に口を近づけて、
「木くらげに」と云って一段声を高くし、「こんにゃく」と続けたと思うと、人の顔のすぐ前で、倍もある長い真赤な舌をぺろりと出した。
 後へ顔を引こうとすると、もう一度きゅっと耳を引っ張ってから手を離した。そうして自分の座に戻り、おとなしく両手を膝に重ねて、「ウフッ、ウフッ、ウフッ」と云っている。
 甘木さんが静かな声で、
「これ、これ」と制した。「余り調子づいてはいかんよ」
「何のその」
「先生の耳はどうだい」
「全くの木くらげよ、冷たくて」
 目を上げて、もう一度私の顔を見据えた。
「かじって見ようか知ら、ごりごりと」
 私が身構えたら目をそらして、「ウフッ」と云った。』
「ゆうべの雲」
 百閒の随筆を読んでいるうちに、その小説も等閑に付すべからざるものであることに気づいた。しかも、ユーモアに富んだ随筆とはまったく違う世界がそこには作り出されていて、その落差に驚かされる。シュールレアリズム小説と呼びたくなる、夢の中のような非日常性を湛えた小説群は、日本の近代文学史の中でも唯一無二の特異な存在ではなかろうか。
 百閒の小説は短編がほとんどで数ページ程度の掌編も多い。多くが一人称の日常スケッチ的なスタイルで書かれていて、文章はよく彫琢され、私小説に通じるものを感じさせる。ただし、そこから立ち上がってくるイメージの不気味さは、日常を信じきった私小説とは別のものだ。
 たとえば、上の「ゆうべの雲」の引用はここだけ読むと、ただ馴れ馴れしい馴染みの女との情景ということになるのかもしれないが、実は「私」とこの女とはまったくの初対面なのである。素性の不明な「甘木」さんともさほど親しい知り合いとも見えず、この男女の行いは「私」の日常に突然深い破断面を生ぜしめる。女が連発する「ウフッ」がもたらすどす黒い笑いにはうっすら恐怖も滲む。
 百閒は出世作の「冥途」からずっとこうした小説を一貫して書き続けてきたようだが、それはどういうモチベーションによるものだったのだろうか。ユーモアにあふれた随筆と、悪夢に似た小説と、この作家の創作の秘密には容易に近づけそうにない。