「東京物語」


 大晦日のテレビはどこも無理矢理のお祭り騒ぎで見たいものもないので、竹泉の濁り酒を飲みつつ「東京物語」を見る。何度見ても見飽きない味わい深い映画。映画史でも屈指の老人映画でもある。
 子どもたちを訪ねて尾道から上京した老夫婦。滞在が長くなるうちに、あわただしい子どもたちの日常のなかで居場所を失い、父親は東京に出てきている昔の知り合いを訪ねる。再会を喜び酒宴を設ける老人たち。そこでの会話がこの映画のなかでも特に印象的なのは、日々に流されている子どもたちと違い、老人たちは受け身でありながら、見るべきものを見、それを辛辣に批評する智恵を備えているからだ。
 尾道で警察所長だったという東野英治郎は、印刷会社の表向きは部長、実は係長だという息子を大鵬の志がないと嘆く。それに対し、笠智衆は「場末のこんまい町医者」のせがれへの不満を滲ませつつも、「東京は人が多い過ぎるんじゃ」とあきらめを説く。東京の人口過多は変わらないが、今や係長や町医者は上等な立場で、東京には将来の保証のない派遣労働者があふれている。老人たちの嘆きもより深いに違いない。
 老人たちには戦争の記憶も深い傷を残している。代書屋を営む十朱久雄は二人の息子をタイで失い、笠智衆も次男を亡くしている(その未亡人が原節子)。「もう戦争はこりごりじゃ」そうつぶやく十朱久雄の言葉が戦後の日本人の思いを端的に表している。この点もまた世は変わり、今や「戦争ができる一人前の国」を主張する政治家や論者は少なくない。「戦争はこりごり」という日本人の痛切な経験にもとづく価値観を忘れて、あるいは忘れたふりをして、パワーポリティクスに耽りたがる自称リアリストたちをこの老人たちの前に引き据えたら、どんな痛烈な言葉が浴びせられるだろうか。酒の回った頭でそんなことを想像していたら、いつのまにか多難の第2年は明けていた。