『温泉案内』


 温泉案内一巻。博文館昭和6年刊。編纂は鉄道省というから、後の運輸省あるいは国鉄のオフィシャルガイドといったところか。手許のものは昭和12年の第18版。版数を見ると当時のベストセラーだったことがうかがえる。
 装幀がちょっといい。布表紙の表は鶴あるいは鷺が、裏表紙は鹿が山中の湯壺に足を浸している図。けだし各地に伝わる温泉発見の由来に基づくものだろう。両見返しは江戸期の温泉番付。ちなみに東の大関は上州草津の湯、西は攝州有馬の湯。
 ほぼ新書版サイズの全688頁には、学問的・啓蒙的筆致が微笑ましい温泉概説に続いて、鉄道省編纂らしく路線ごとに網羅した全国の温泉の簡にして要を得た案内を載せる。朝鮮・満州・台湾の温泉が当然の如く挙げられているのも時代を感じさせる。さらに、折り込みの色刷り木版画2葉と各地方ごとの地図、温泉写真多数を収めて、ビジュアルな楽しみも加えている。これで金壹圓八拾銭というから今の千円程度か。お買い得の一本だったといえるだろう。

 『櫃ヶ山の西南麓、懸崖により、東南は旭川の清流に臨み、翠微濃かな中に位置を占める景勝の地である。午前十時頃に陽光に浴し、午後四時頃には陰影迫る有様であるし、蚊もゐないから避暑地としても恰好であらう。
 湯槽は岩石を穿つて設けてある。又別名を金銭湯と稱し、湧出の勢強く、試に竹筒を土中に挿せば噴泉一米餘に及ぶ。(真賀温泉)』
 こんな古拙な文章を拾い読みつつ、当時の長閑な温泉場風景を思い浮かべ、湯治客の目に写った山川の幽邃を想像するのは、万事にうそ寒いこの冬の、わずかに心慰むるわざなのである。