晩夏考

 ようやく夏らしい日が戻ったと思ったら、今日はまたすっきりしない空模様。週間予報を見てもしばらくこんな空が続くようで、今年の夏はどうやら腰砕けのまま退場することになりそうだ(どこやらの2世総理みたいに?)。この時節らしい夏を送る気分も、今年は今一つ薄い。
 代わりにというわけではないが、古典からこの時期の句歌を探してみるが、夏を惜しみつつ送るといった類のものを見つけることはできない。紀友則の名歌、
 秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく
も、草花の凋落を惜しむ気分は感じられても、夏を惜しむものではない。近代の晩夏の句歌詩に一般的な行く夏を送るトーンは、近世以前にはまったくあてはまらないようだ。第一、「春の暮」「秋の暮」はあっても、「夏の暮」は古吟には存在しない。
 考えるに、夏を惜しむ気分は近代に入り、西洋の夏のバケーションの習慣が導入されてから生じたものなのではないだろうか。海山の遊びが一般化するとともに、夏を季節の絶頂とする感覚が定着し、この壮大でドラマチックな季節が過ぎ行くことを哀しむ気分も生まれた。そしてそこに、短い青春への哀惜も加わり、人生観的な題材としても重要なものになった。寺山修司の次のような歌をよむと、そんな「晩夏」という詩材の多義性が感じられる。
 傷つきてわれらの夏も過ぎゆけり帆はかがやきていま樹間過ぐ