紫陽花・清方・鏡花


 庭のガクアジサイがきれいな季節だ。ガクアジサイというものの、本来アジサイの花に見える部分はガクなのだから、普通のアジサイこそがガクアジサイであって、ガクアジサイはガクの花が少なく、中央の本当の花の部分がよくめだつもの。これこそが花としての真のアジサイの姿といえなくもない、とまあ、そんな屁理屈は置いといて、装飾花に取り巻かれた小さな宝玉のような花の蕾、両者の対比と色の微妙な配合は、見れば見るほどチャーミングだ。

『紫陽花の花は今でも好きである。幼い頃、築地明石町の外人住宅などの生籬が薔薇や紫陽花で造られてあるのを見て、自分も大人になったら、庭に紫陽花を植えるのだと空想したりしたものだった。…種類は随分多いが、花が大きくて――といっても花に見える部分は実は萼なのだが――水色白群から白群、それから淡い藤色に変っていく、その色の美しさと変化の中には秘めやかな妖気があり、異国趣味がある。まろく咲くその形が何か蹴鞠のように定まらない形なのも面白く、もともと好きな処に、泉君の猛烈なファンだった私はその小説に紫陽花がよく出て来るので一層好きになった。…』「紫陽花舎閑話」
 これは引き続き鏑木清方の文だが、この人は雅号に使うほどこの花がお気に入りだったよう。代表作といわれる「築地明石町」にはたおやめの足元に朝顔が描かれていたけれど、きっと紫陽花を描いた絵もあることだろう。ここに「泉君」というのはもちろん泉鏡花で、鏡花と清方の交友は明治34年に鏡花が『三枚続』という作の装幀を依頼した時から始まる、というのもまたこの人の随筆から教わるところ。その後、多くの鏡花本が清方の装幀で飾られ、今では目の玉の飛び出るほどの値で愛書家に取り引きされているのは縁のない世界の話だが、我々にも手の届く鏡花・清方本があって、それは岩波の鏡花全集。ここにも気がつけば見返しに紫陽花が描かれていて、二人を結ぶ縁をとどめている。
 ならば紫陽花を書いた鏡花の小説はと、頭をひねってみても一向に思い浮かばないのが、鏡花好きというも半可通なところ。いろいろ引っかき回して、ごく初期にいきなり『紫陽花』という小編が書かれ、その後も『高野聖』をはじめ、いくつかの作に紫陽花が描かれているのまでは分かったけれど、清方が「一層好き」になるほどの鮮烈な紫陽花が登場する部分をピックアップするまでには至らなかった。代わりに『泉鏡花と花』という面白そうな着眼の本が昨年末に出ていたのを知ったのが、このささやかな探索の収穫。