グスタフ・レオンハルト、吉田秀和


 HMVの「輸入盤3枚で25%オフ」キャンペーンに乗って買った一枚。LP時代に親しんだグスタフ・レオンハルトスカルラッティソナタ集。スカルラッティソナタの魅力を最初に教えてくれた録音。その後、ピノック、スコット・ロス、シフ、ハスキル、何人かのものを聞いたけれど、これ以上に魅せられた演奏には出会っていない。詳しく分析する能力はないけれど、久しぶりに聞いてみると、落ち着いた端正な演奏。はしゃぎ過ぎない弾き方が、かえって曲の面白さを伝えているような気がする。
 ところで、吉田秀和の『私の好きな曲』には、このソナタ群が好きな曲の一つとして取り上げられていて、スカルラッティの音楽の魅力の本質がみごとに指摘されているように思う。その乱暴なダイジェスト。

『…スカルラッティの鍵盤音楽は、バロックからロココに移る、その転換期の芸術のひとつなわけで、この十八世紀前半のヨーロッパの社会、特に宮廷を中心とした社会の感性がとった音楽的形態にほかならない。…
 いや、スカルラッティの芸術的天才は、彼を生み出した伝統、彼の生きた環境から、孤立したものではないが、しかし、そういった外側からの説明ですべてがつくされるような性質のものではない。
 彼の音楽には、典雅と同じくらい、発酵性にとんだ活力が与えられている。…
 スカルラッティのたくさんのソナタは、普通みんなが想像しているように、活発で快活なアレグロが圧倒的に多いというのは真実ではない。その中には、哀愁の影をもったアンダンテ…や、微妙な明暗にみたされたアレグレット…のような曲が、無視できない量に上っている。
 ただし、そういう音楽でも、これはあくまでもロマン主義の芸術ではない。抒情でも、心情の告白でもないのである。
 これは、社会の(宮廷の)制約の中に身をおきながら――というよりも、その制約が、ひとりの天才の感性を通過してゆくうちに、自ずと形をとってきた芸術なのである。
 日本でいえば、どういうことになるのだろうか? 光琳とか宗達とかの芸術が、これにやや近いということになるのだろうか? とにかく、新古今といったものとはひどくちがう。スカルラッティには儀礼的な社会に生きていたとはいっても、常にその中での芸術的行動の枠いっぱいにみたしている闊達な想像力の躍動があるのであって、意識的に自分を何かの中に閉じ込めた文化のもつ、いかにも努力し、無理を加えているような趣は少しもない。』
 長くなったけれど、音楽と文化へのすばらしい洞察に満ちた文章だ。そして、ここで指摘されている「哀愁の影」や「微妙な明暗」もレオンハルトチェンバロには濃い。ところが吉田秀和が文章の最後にあげている推薦盤に、執筆時すでに発売されていたはずのレオンハルト盤は入っていない。ギレリス、ホロヴィッツハスキルとピアノの名手による演奏ばかり。まだこの頃、古楽器による演奏は彼の視野に入ってなかったということなのだろうか。