栃の実・泉鏡花


 別山の千振尾根で拾った栃の実をしばらく放っておいたら、すっかり枯れて、皺が寄り偏平になり、けれどチョコレート色のしっかりした堅果になって、掌のうえで可愛い。拾ったばかりの丸々黒々艶やかだった様子とはずいぶん違うが、それでも秋の賜物を感じさせる、胡桃と並ぶ手元に置いておきたくなる木の実だ。
 掌で転がしていて思い出したのが、泉鏡花の小品「栃の實」。鏡花が尾崎紅葉を頼って東京へ出る際に越えた江越国境の栃ノ木峠を回想した紀行文だが、自ずと鏡花の筆は精彩を添えて、小さな物語を成している。晩夏の陽差しの下、腹を痛めた作家の卵は、折しも大水の後のやむない旧峠越えに行き悩み、籠を頼んでようやく達した栃ノ木峠。峠の茶屋で名物の栃餅を口にできない代わりにと、茶屋の娘が差し出したのがこの実。

『「…こんな山奥の、おはなしばかり、お土産に。――此の實を入れて搗きますのです、あの、餅より之を、お土産に。」と、めりんすの帶の合せ目から、ことりと拾つて、白い掌で、此方に渡した。
 小さな鶏卵の、輕く角を取つて偏めて、薄漆を掛けたやうな、艷やかな堅い實である。
 すかすと、きめに、うすもみじの影が映る。
 私はいつまでも持つて居る。
 手箪笥の抽斗深く、時々思出して手に据ゑると、殻の裡で、優しい音がする。』