『死霊』

埴谷雄高「死霊」の構想メモ見つかるasahi.com
 『死霊』を読んだのは、もう30年も前。第5章が26年ぶりに発表されてしばらく経ってから。既出全章を一冊にしたあの真っ黒な講談社版でだったけれど(ちなみにこの本の見返しには黒地に薄く星雲が描かれていたが、それが忌日「アンドロメダ忌」の起こりなのだろうか)、もちろん内容はほとんど覚えていない。ただ、晦渋な哲学的内容にも関わらず、この本は結構面白かった。青春の読書に有りがちな、問題作を読んだというその事実を求めての通過儀礼的読書ではなく、ある種の感受をともなう読書だったことをよく覚えている。
 まず、埴谷の文章は読みやすかった。段落は時にとてつもなく長かったけれど、文章は滑らかに流れ、描写は端正で、読み続けることは苦痛でなかった。そして、大部分が哲学的である会話には、にもかかわらず精彩があった。たびたび挿入される「おお」「ふむ」「ほほう」などの間投詞が会話にリズムを与えていたし、対論の駆け引きも分らないながらに面白かった。そして、忘れてはならないのが、哲学的トリックスター、首猛夫が連発する「あっは」と「ぷふい」。ドイツ語から取ったらしい二つのひらがな書きの間投詞が、深刻な哲学的議論を何か楽しげなものにしていた。
 けれど自分にとって、何よりもこの本が魅力的だったのは、それら全体を包む一種詩的な雰囲気。『死霊』の魅力は夢幻能の魅力に近いと感じた。幽明の境を自由に越えるあの舞台のように、この小説の思弁の世界は現実からふわりと浮かんで、なかば神秘の霧に包まれている。そのなかで描かれる場面のリリカルな色合いが好ましかった。たとえば思い出すのは、主人公三輪与志が尾木恒子の部屋を訪ねる場面。霧が渦巻く中、西洋画に見るような簡素な部屋で、ほっそりと美しい女性であるに違いない尾木恒子が用意した紅茶とビスケットを前に、主人公とその兄の婚約者の妹は赤ん坊が泣くことを巡る不思議な思弁的会話を静かに交わす。その場面の舞台装置と立ち居振る舞いと会話の全部が、自分には魅惑的に感じられたものだ。たぶん、こんな味わい方は片寄っているのだろうが、この作品が哲学書ではなく小説である以上、思弁の道筋を追うだけでなく、作品世界そのものを感覚的に楽しむ読み方も可能なはず。『死霊』が夢幻能だという感想は今も変わっていない。
 件の構想メモは「群像」11月号に掲載されるそうだ。記事によるとごく早い時期のメモで、書かれたものとは違い、性的な内容なども含むより小説的な構想だったらしい。久しぶりに文芸誌を買って、この類稀な小説誕生の舞台裏をのぞいてみようか。