葛城山・本居宣長

『なほ西には金剛山、いとたかくはるかに見ゆ。その北にならびて、同じほどなる山の、いさゝか低きをなん、葛城山と今はいふなれど、いにしへはこのふたつながら葛城山にて有りけんを、金剛山とは寺たててのちにぞつけつらん。すべて山もなにも、後の世にはからめきたる名をのみいひならひて、古のは失せゆきつゝ、人もしらず成りぬるこそくちをしけれ。』
 明和9年(1772年)に、大和と吉野を巡った本居宣長の紀行文「菅笠日記」の一節。香具山に登って居合わせた里人に「見えわたるところ/〃\を、そこかしこと問ひ」、西に聳える金剛・葛城の眺めも楽しんだ。その際の小蘊蓄。宣長の言う通り、かつては葛城とは、単独の峰の名というよりも、今の金剛山を含めての地名だったらしい。宣長お得意の唐ごころ擯斥はともかくとして、半ば伝説化した修験道の祖、役小角が活躍した葛城山は、確かに飛鳥の古京から西の眺めを黒々と限る大きな山並みの総称とした方がふさわしいような気がする。3年前に、山麓新庄町當麻町が合併して葛城市となったのは、少し北へずれて位置するとはいえ、宣長的には古の名の復活として喜ぶべきことかもしれないな。