吉田秀和

 昨夜、教育テレビでやっていた「言葉で奏でる音楽―吉田秀和の軌跡―」というドキュメンタリーは面白かった。制作者のなかに熱心な読者がいたらしく、評論のなかの演奏家への美しいオマージュが、当の演奏家の映像つきでたくさん抜粋されていた。また自身を語る印象的な文章も効果的に引用されていた。古谷一行の朗読もよくて、うっとりしながらその見事な表現を味わった。
 おん年93だそうだが、その表情と語りの若々しさはどうだろう。5歳若い加藤周一の方が最近は衰えて感じられるなあ。奥さんを亡くして意気消沈し、しばらく朝日夕刊の音楽展望も中断して心配していたが、ご本人はぜんぜん老け込んでない。最近、音楽展望も復活してうれしい限り。一人暮らす鎌倉の自宅の映像が頻出していたが、ドイツ人の奥さんと住んでたのに、ごくオーソドックスなこじんまりした日本家屋だったのは意外だった。
 番組からの吉田秀和の生活と感懐のメモ。
朝食
 3分半茹でた半熟卵と紅茶とドイツパンとコーンフレークとヨーグルトと、なかなか充実。何十年もこのメニューとか。
オーディオ
 ごく簡素なセット。楽譜を見つつ、メモを取りながら聴く。
 「機械は立派でなけりゃいけないとは思わない。演奏の本質はそれで十分につかめると思うし、それが分らなければどんな立派な機械で聞いたってしょうがないと思う」
相撲ファン
 「NHKの相撲中継の解説者の解説はね、……完全に技術批評に終始してるんですが、しかしね、相撲の最初から終わりまでの間でね、どっか一つだけ急所があって、それがこうだったからこうなったという、それをね実に簡潔にうまく言ってるんですよ。僕はとっても感心した。音楽批評もこうでなきゃいけない。というよりも、こういう批評を書きたかった。……この人の特徴はどこにあるかということを一口で言うことをね、批評ってのは学ばなくちゃいけないと思いましたね」
文章作法
 「僕は書く前にずいぶん考えます。こういうことを書こうと思って、頭の中でかなり準備します」――書き始めると一気に?「そう、割に早いですね。ただし、何回も何回も清書します。清書のたんびに言葉づかいの細かい点は気に入ったものに直していきます。その時に全体の大きな流れが変わってくることもなきにしもあらずですが、しかし大体において書き直しは言葉づかいの細かな点ですね。で、そういうことを削ったり磨いたり、付け加えたりするのは好きです。原稿を直してる時の方が、生み出してる時よりももっと手間暇かけてやってると思いますね」
現状
 「日本の音楽批評、雑誌とか新聞に載る批評ということに限定して言えば、ずいぶん変わったと思う。そして優秀な人たちが出てきていると思いますね。僕がまだ駆け出しでいた頃は、もっとひどいもんだったなあ。やっぱりそれは日本がね、マーケットとして世界的に重要なものになって、すばらしい人たちが次から次へと来て、日本に居たってね、うんと色んなものを聞いたり見たりする経験を積むことができるようになった。市場として成熟してきたということだと思います。それともう一つはね、学問として音楽を勉強するという、学校の方にもそういう所が出てきたし、その進歩がみんなの教養を底上げするのに大きな力になったと思います。比較にならないと思う。けれども、その反面心配な点もありますね。学問として勉強してきただけに、ある種の客観的な考え方・見方というのはずいぶん高度なものになってきたけども、自分の問題として音楽をつかむ力なんかは、なんか少し、その客観性の重視が正面に立って、いわば批評じゃなくて正確な報告というものに近づいて、あるいはそういう側面が強くなったような気がする。それはだから悪いとも言えないんですね。少なくとも一長一短のような気がするな。つまり創造的なプッシュ、刺激を与えるという、そういう要素は批評のなかからかなり影を薄くしつつあるような気がする。……簡単に言うと、読んで面白いというのはね、無視できないものだと思うんです。それはね、音楽がすでにそういうもんだと思うんです。面白くなけりゃいけないんです。面白いということはどういうことかはまた別としてね。そのようにね、批評も面白くなくちゃいけない。ま、それが僕の考えだな」
 蛇足だが、番組中の堀江敏幸のインタビューは気の抜けたものだったなあ。吉田秀和の片言隻句も経験と考察に裏打ちされたことがわかる言葉に対して、この小説家の言葉はいかにも影が薄かった。自ら吉田ファンを任じるなら、その見事な評論、宝石のような文章の秘密に対して、自分の言葉を駆使して迫る熱意がほしかった。宝の山に入りながら、何をしてるんだと言いたくなった。