泉 鏡花

 鏡花の「歌仙彫」はこの季節の濃い緑の下で語られる一篇。舞台は黄昏の深川・冬木弁天堂。堂守の僧が額堂の下に佇む人影に声をかける。

「 トぎよつとした體で、
『はあ、』
 と答へた、……薄茫乎と其の暗い中に、誰が描いたともなし額縁も無くつて立つた、痩せた青年の形が、長棹で一つ拂たかれた蝙蝠と云ふ體で、……日のなごりも、月の影も、まだ星もない、初夏の夕暮を、本堂の常燈明が薄りと影を放つて、前の大池にすら/\と、黄色いが些と冷い光を曳く、……其の水ながら、灯ながら、上へ映り返すやうな、青葉若葉の累なつた下へ、搔窘んだ様子で出て來て、
『恐入ります……何うも。』」
 昼下がりから夕暮時まで、長々と佇むその様子を訝しんだ僧の柔和な問いかけに、当の青年が答えるところから物語は始まる。いや、遂には問わず語りに展開していく青年の話だけで一篇は成り立っている。
 青年は駆け出しの木彫家で、縁あってさる豪家の奥方から援助を受けて、展覧会への出品作を彫ろうとしている。けれど一向に手につかず、素材の桐の丸太が六畳間に久しく転がっているばかり。様子を見に訪れた奥方が、見かねてその丸太ん棒に着せ掛けた桔梗色の羽織のイメージがまた心を攻め、いっそそのまま羽織で包んで出品しようかと思い詰めるような、屈託の日々を送っている。
 そんな中にも、気晴らしと小遣い稼ぎに六歌仙の人形を彫り、たまたま託した研ぎ屋の親爺がみごとに売りさばいて、また後を乞うのに気を好くして、ここ数カ月はそんなことに日を紛らわしている。するうちに、実際の売り手は親爺ではなく若い女のようだと薄々感じ、その人が無性に見たくなり、深川の方とばかり聞いた研ぎ屋を探しては徒労に終わる毎日だという。ところが、この日ふと訪れた冬木の弁財天で六歌仙の人形を携えた娘に出会う。問うと、近所の姉さんの売り物で、湯に行っている間預かったものだという。その姉さんに逢いたいと言伝てて、待つこと昼過ぎからこの時間まで。はたして、その売り手とは…。
 ところが、一篇はほとんどこれで終わる。最後に次のような不思議な描写がくるばかり。しり切れとんぼの謎のまま放り出された物語は、冬木の弁天堂の小さな明かりを取り巻く、濃密な木の下闇にフェードアウトしていくよう。
「 矢的は溜息して又四邊を視た。
 時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、から/\と鈴が鳴った。
 典和は薄鼠に、半ば開いた障子から明白で、半ばの障子に、矢的が其の影法師。茶盆を中に小机を控へたのが、横縁から、額堂と差向ひに黄味がかつた燈の明で、緑の中に、薄り浮く。
 ト頸の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝はづれに、樹の下闇の石段を、すツと雲を踏むか、と音もなく下りるのが見える。
 恁うした光景、恁うした事は、御堂に時々あるらしい。」