水西荘と鐵齋、メモ

御幸町の家は餘り狭い。殊に夫人は身重になった。丁度其頃頼山陽の舊居三本木の水西荘、即ち山紫水明處が空家になったので由縁ある家であり翁は喜んで此處へ移った。此家の東側は加茂川で其の對岸に梁川星巖の宅があり、紅蘭女史が一寸野菜買ひに行くにも下婢を連れ、揚々として荒神橋を渡り、門へ近づくと下婢が先へ小走りして門をあけ、横へそれて恭しく頭を下げて居ると紅蘭は腹を前へ突き出しそうにしてヌッと門へ這入る。其の様子が手に取るやうに見える。此の水西荘で一子謙藏氏が生れた。」本田成之『鐵齋と南畫』
 頼山陽の旧居水西荘に富岡鐵齋が仮寓したのは、明治5年から7年のこと。その少し前には『山陽詩註』を刊行している鐵齋だから、敬愛する文人の跡に日夜触れる生活というのは夢の如きものだったろう。
 また、最晩年になって鐵齋は、西宮の辰馬家から山陽自刻の「山碧水明」の印を譲り受ける(実は辰馬家と親族との密かな約束で、存命中だけ借り受けたのだが)。そして、それをきっかけに、幾枚かの山紫水明處図が描かれる。もちろん、それらの絵には、山陽の印が由緒書きや山陽の詩などとともに誇らしげに押された。
 若い頃は山陽が意を凝らした空間に身を置き、晩年は山陽遺愛の印を手許に置く。鐵齋は一貫して和漢の文人の世界を生きた人だった。