井上安治

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 インターネットから集めたわが名画コレクション(^^;)の一つ、井上安治(1864〜1889)の「枕橋の図」。14歳で当時人気の高かった風景錦絵師小林清親に弟子入りし、25歳で亡くなった夭折の風景版画家。「明治十四年御届」と記されたこの絵は、17歳の時のもの。右端にわずかに欄干が描かれた枕橋のたもとから見た、渡し場と対岸の浅草の夕映えの風景。見習い4年目の若い絵師が描いたとは思えない、淡々と滋味深い風景画だ。早熟の天才の作といってもいいかもしれない。師匠の清親にこれを超える絵はない。安治少年には、師匠のように旧時代の浮世絵の視点を通してではなく、自身の眼で直接風景を描き取る能力が備わっていたようだ。御一新の世が生んだ最初の芸術家と言おうか。
 ただ、この天才は数点の見事な絵を世に送った後は、なぜか、おおむね粗雑な風景小版画を量産する絵師になり、最後はけばけばしい明治開化の錦絵を手がけて終わる。それは、生まれ持った清新な風景画家の目が、次第に浮世絵末流の旧弊に侵されていくプロセスと解釈していいように思う。天才の光芒は一瞬だったが、今もその輝きは褪せない。
 ついでに地誌的な興味からの注釈。枕橋は江戸期には源森橋と呼ばれていた、隅田川に流れこむ源森川にかかる橋。個人サイト[台東区]には、「源森橋の北側に水戸屋敷があって敷地内に隅田川から堀を引いてあってこの掘に架かる橋を新小梅橋と呼ばれていた。この二つの橋は並んで架かっていたので、いつしか枕橋と呼ばれるようになった。水戸屋敷の堀はやがて埋め立てられ、新小梅橋も消滅したが、明治八年に残った源森橋を正式に枕橋と改称したのである。」と解説されている。
 また、墨田区のサイトには、枕橋から浅草を望む明治の写真があり、これを見ると、対岸の家並みが少し変わっているものの、浅草寺の堂宇の姿はほぼそのままで、この絵がきわめて写実的に描かれていたことが確認できる。